第29話 塩崎時子
その日、和音は近所のスーパーに買い物に行っていた。
瑞希はアルバイトに行っており、今日は和音が留守番だったのだ。
留守番のときは、夕飯のお買い物をしておくのが和音の役目。瑞希の残したメモに沿って、わかるものは自分で選び、わからないものは店員さんに選んでもらう。和音は賢いお子さんだった。
その賢い和音の前に、見覚えのある『おばさん』が現れた。叔母の垣崎だ。
「あらあら、まあまあ! 一人でお買い物なのね? やっぱり和音ちゃんは賢いわぁ」
「おばさん!」
和音はおばさんがキライだった。
だけど、こうして出会ってもあからさまにイヤそうな顔をすることはない。お姉ちゃんである瑞希の立場を考えて、そんな顔はしない。それこそ和音は『かしこい』のだった。
「なにか、わーちゃんにごようですか!?」
「そうよ、和音ちゃんに御用があるの」
「いんたびゅーならお姉ちゃんをとおしてください!」
「いいわねぇ、ホント賢い」
垣崎は瞬間目を細めて、にんまりと笑う。
蛇を思わせるその表情にたじろきながらも、和音はその場を後にしなかった。和音が粗相をすれば、それは全て瑞希に跳ね返ると理解をしている。
そして和音がそれを理解している、と垣崎は『理解』していた。
自分の話をちゃんと聞く。そう確信していた。
「買い物を終えたら少し私に付き合って頂戴ね? お話があるの」
「いんたびゅーには……わーちゃんは……」
「あらぁ、……また瑞希ちゃんの学校に通報が入っちゃうかもしれないわねぇ。今度は、天堂さんだけでなく瑞希ちゃんの悪い噂も広まっちゃうかも……」
「――――!」
和音は目を見開いた。
自分次第、という言葉を和音はまだ知らないが、言葉を知るよりも早く、状況でそれを知ることになったのだ。
「そんな噂が学校に広まったら、もう瑞希ちゃんは学校に居られなくなっちゃうかもしれないわねぇ。退学になっちゃうかも。――あら? どうしたの和音ちゃん、なんか顔色悪いような気がするけど、気分が悪いのかしら。ちょっとおやすみする? そこの喫茶店で、叔母さんとお話をしながら」
「学校は……行かなきゃなんです」
「ああ。そう言えば貴女のお母さん、高嶺さんはよく言ってたわね。学校は大事だから、って。ちゃんと行かないと、って」
垣崎はわざとらしく、突然なにかを思い出したように手のひらをポンと合わせ。
「丁度いいわ和音ちゃん、瑞希ちゃんの大学進学に関しても良い話があるの。お姉ちゃん想いの貴女ですもの、きっと気に入ってくれる話。瑞希ちゃんも和音ちゃんも苦労なくちゃんと学校に行けて、皆幸せになれる話なの。いい話なの」
にっこりと、笑った。
◇◆◇◆
突然の「養子に行く」宣言。
びっくりした俺たちは、和音ちゃんにあれこれ聞こうとしたのだが、和音ちゃんは頑なに理由を答えようとしない。「もうきめましたから!」と言うだけだった。
しかも明日は、垣崎さんに連れられて養子先のご夫婦と顔合わせに行くと言う。
さらにびっくりさせられた俺たちは、時子さんに連絡を取って『トレジュアボックス』に赴くことにした。
もちろん和音ちゃんも連れていくつもりだったのだが、和音ちゃんは「いかない」と首を振る。今日はもう寝ます、と、まだ早い時間なのに寝室へと篭ってしまったのだった。
「電話でも聞いたが、……だいぶ突然の展開だなぁ」
店内のカウンター内で、グラスを拭きながら時子さんが淡々と言った。
俺はその冷静さが気に食わず、つい不満げな声になってしまう。
「突然すぎますって。いったい何があったっていうんだ、時子さんだって不思議に思いませんか!?」
「うーん。そらまあ不思議には思うが。……瑞希はどう思ってるんだ?」
俺の横に座っている高嶺さんに話を振る時子さん。高嶺さんは両手でオレンジジュースのコップを包みながら、それを飲むでもなく、これまた淡々と答えた。
「叔母さんが、わーちゃんになにか吹き込んだんだと思います。留守番をしていた昨日からずっと、なにか思いつめた顔をしてましたからきっとその時に」
「なるほどな。やはり叔母さん、……原因は垣崎さん、と」
「和音ちゃん一人のところに垣崎さんがやってきたっていうの!? そこまでするのか、あの人!?」
俺が驚いていると、時子さんが呆れ顔で鼻を鳴らした。
「和臣、おまえ頭タンポポか? 善良はおまえの良いところであるけれど、過ぎると短所にもなりえるぞ」
時子さんは続ける。
「相手の弱いところを突くなんて、物事の基本も基本。剣道で学んでたはずだろうに」
そう言われてしまうとグウの音も出ない。
確かに時子さんは言っていた。相手は弱いところを突きにくる、だから戦う以上は弱みを見せるなと。
試合中に足首を痛めたことがあった。それを見破られると相手が嵩に懸かって攻め立ててくる。戦いに真剣であればあるほど、誰もがそうする。卑怯でもなんでもない。
俺はあのとき、弱点を隠すことができずに敗北した。
もう学んでいたはずだったじゃないか、弱点を知られたらそこを攻められると。
「こんなときに和音ちゃんを一人にするべきじゃなかったのか……」
時子さんは首を振る。
「そこは遅かれ早かれ、だよ和臣。それよりも、垣崎さんの行動を予測して事前に和音ちゃんに言い含めておければよかったんだろうが、まあもうそれを話しても遅い」
「今から、和音ちゃんを説得するのは?」
「遅い、と言っただろう? あの子は頭も良く、頑なだ。そんな子が自分でなにかを考えて決心してしまった、叱りつけたところで気持ちを変えるのは難しいんじゃないかな。あたしはそう思うけど」
時子さんの言葉に、高嶺さんが頷く。
「わーちゃんは、こうと決めたときにはテコでも動かなくなります」
「垣崎さんに言い含められたのは、きっとおまえら二人に関することなんだろうな。あの子がそんなに強い意志を見せるなんて、他には考えられない。……しっかり攻めてくるもんだ、おまえら二人の弱点も、和音ちゃんの弱点も」
ごくり、と俺は唾を飲み込んだ。
垣崎さんに怒りだけでなく、底知れぬ恐怖を覚えたのだった。
俺は思わず、根っ子である部分を口にした。状況を整理したくなったのだ。
「なんの目的で、垣崎さんは和音ちゃんを養子に出そうだなんて言い出したんだろう」
「それは簡単な話だよ。金のためさね」
時子さんは答えると、カウンターテーブルの上に紙の束を置いた。
「知り合いに調べてもらった」
俺と高嶺さんは束を手に取り、順に見ていく。
それはどうやら報告書のようなもので、解説と数字が交互に記されていた。
垣崎さんに絡んだお金の流れと、様々な不正の証拠だ。
俺は思わず時子さんの顔を見る。
「こ、これ……!」
「まーやってるだろな、ってのはすぐに想像できたからな。仕事の合間に調べてもらったものだから時間も掛かったが」
「これがあれば、全て解決じゃん時子さん! ありがとう、ありが……!」
ん? 俺が礼を言っている最中に、時子さんは紙をまとめてしまい込んでしまう。
時子さんは変わらずの浮かない顔。なんだ?
「まー、垣崎さんはアウトだよ。それはもう簡単だ。だけどな、報告書にある今回の養子先候補」
「……養子先候補が、どうしたんですか?」
俺はちょっと訝しげな顔をして、時子さんに問うた。
横を見ると、高嶺さんも俺と同じような顔をしている。
時子さんは「んー」と頭を掻いた。
高嶺さんが、時子さんの顔をまっすぐに見据えた。
「時子さん、言ってみてください。なにが気になってるのですか?」
「そこに書いてある養子先のご主人、あたしの知り合いなんだよ」
「え?」
「あたしの剣道の師でな、ちょっと抜けているところはあるが善良で尊敬もできる人だ」
時子さんは高嶺さんのまっすぐな目に、まっすぐな目で見返して話を続ける。
「不正に関わるような人ではないと思う。まあ抜けているところがあるから、不正に巻き込まれている可能性はあるが。まあそこはさておき」
「さておき?」
「そう、さておきなんだよ和臣。あたしはな、今回の話自体は、おまえたちには申し訳ないんだが、垣崎さんの言う通り、悪い話じゃないのではないかと思っている」
「はあぁーっ!?」
俺は思わず大声を上げてしまった。
たぶん気になって聞き耳を立てていたであろう常連の客たちが、驚いて俺の方を見る。
だけど俺は、それどころでなく声を荒げて続けた。だって、納得がいかない!
「なに言ってんだよ時子さん! 和音ちゃんは高嶺さんと一緒に居るべきだろ!? 姉妹なんだ、仲がよくて、お互いを思い遣りあってる姉妹なんだよ!? どうしてそんなこと言うんだよ!」
「報告書見ただろ? 垣崎さんは二人の両親である高嶺夫妻の遺産を既に大方遣い切っている。さらに投資に掛けて失敗した上にさらなる投資を最近している。贅沢そうにしているが、もうなけなしの金だ、ギリギリだ」
「だからなにさ!」
「つまりな、垣崎さんを不正で訴えたところで、もう瑞希たちに残されていた金は戻ってこないんだ。瑞希たちは無一文に近い状態で、社会に放り出されることになる」
「だから高嶺さんは、頑張って働けるようになるって言って!」
俺が言い放つと、時子さんは明確に怒りを込めた目で俺を睨んできた。
「はは。住む場所もなくなる。施設に入ることになる。その後だって、どうなっていくかわからない。どうすんだ和臣、おまえが支援でもするか? それでも雀の涙程度の額にしかならないだろうが。これも昔に言っただろう? 冷静に状況を見ろ、と」
俺もまた、時子さんを睨んだ。
言葉が継げなくて、それが悔しくて睨んだ。時子さんの言ってることは正論だった。それがわかってしまうので、俺は睨んだ。頑張ってるのに。高嶺さんは頑張っているのに!
「頑張ったからといって解決できない問題てのは、あるんだよ」
俺の胸の内を見透かした声で、時子さんが言う。
それは優しい声で。その声音がまた、俺を時子さんを睨ませた。
「養子先候補のな、武藤さん。和音ちゃんがこの人の養子になったなら、たぶん悪いようには転ばない。大切に育てて貰えると思う。なんならしょっちゅう会いにいけるとも思う、お住まいは隣街だからな。そして瑞希も、問題なく大学に進学できるだろう。自分だけの生活なら今の瑞希は自分でどうにかできるはずだ」
俺と高嶺さんは、無言で時子さんの話を聞き続けた。
時子さんは、淡々とした声で続けている。説得するような声音でもなく、ただ自分の予想と事実を述べているのだった。
「……たぶんな、垣崎さんもこうやって和音ちゃんを説得したんだ。和音ちゃんは賢いから、そして強いから、この話を受け入れてしまったんだろう」
受け入れて、しまった……?
俺は唇を噛んだ。
「なんだ、時子さんだって、本当はその話の結末が本当にハッピーエンドだなんて、信じてないんじゃないか!」
「ベターな展開だとは思っているよ」
「俺はイヤだ!」
声が、声が止まらない。隣の高嶺さんが、心配そうに俺を見る。
「天堂くん……?」
「高嶺さん、時子さん! 俺は納得しないぞ!? ベターだって!? そんなの糞くらえだ、ベストが良いに決まってる! 時子さんだって言っていたじゃないか、ベストを目指せ、ベストを尽くせって! 俺はまだ諦めない、やれることはあるはずだ! 畜生、負けてたまるか! 俺がなんとかする! してやる!」
「でもおまえ、なんの策があるわけじゃないだろう?」
「探してみせる! 絶対なにかあるはずだ! まかせろ!」
気がつくと、俺は店を飛び出していた。
明日、垣崎さんに連れられて養子先のご夫婦と顔見せと言っていたか?
「俺に、できることを……!」
――商店街を走りながら、俺は拳を握りしめたのだった。
◇◆◇◆
「天堂くん……」
ともう一度、瑞希が心配そうに呟いた。
カウンターの中では、時子が疲れた顔をしてウイスキーを注いでいる。
ふう、と大きな溜息を一つ。コップのふちを舐めた。
「そう心配そうな顔をするな瑞希。和臣だって無茶さではおまえの叔母さんに負けんよ、正論をぶち壊す可能性があるのは、いつだって情熱のある無茶さなんだ」
「時子さんは私と天堂くんの為に、わざとあんなことを?」
「いいや、喋ったことは全て本心さ。現実的なことを考えれば、和音ちゃんが武藤さんのところに養子へ行くのはアリだと思う。武藤さんは善良で、筋の通った人だからな」
時子は酒を舐めつつ、ドアの外を見つめた。
それは、走り出した和臣の後ろ姿を眺めるような目だった。
なにかを期待し、応援する目だった。
「ケツは大人が拭くからってな」
だから子供は、自分の無茶を信じてがむしゃらに進めばいい。
時子にそう言ってくれた人がいる。
時子はいま、時子が伝えるべき子にそう伝えた。
そしてその子は、時子にそう言ってくれた師に向かって、怒りと共にぶつかろうとしている。
どうなるのかは、時子にもわからない。だけど。
「和臣の奴がああなったなら、きっと……!」
期待してしまう自分を感じながら、時子は酒を一気に飲み干したのだった。
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