第16話 高嶺瑞希

 高嶺瑞希は学校で氷の姫君と呼ばれている。

 理由は単純、ほとんど笑わないからだ。


 クールで冷静、機転が利く。

 学業は成績優秀学年一位、身体能力も高く、各種運動部からの勧誘が留まることを知らない。

 だけど彼女は放課後になると、すぐに帰ってしまう。

 その理由は誰にも明かさない。


 だから彼女は氷の姫君、他者とは一線を画す存在。

 ――なのだが。


『ポコン』


 放課後、学校からの帰路。瑞希のスマホが鳴る。

 立ち止まり、無表情でスマホを弄った瑞希の顔が、ほんのり緩んだ。


「そっか。天堂くん、帰りが遅くなるってわけじゃあないんだ」


 佐伯くんに用件があると言ってたから、てっきり遅くなると思っていた。

 遅くならないのなら今日は『トレジュアボックス』で食事をとらず、アルバイトが終わってから一緒に夕食を食べよう。


 瑞希はそう考え、その旨を和臣にメッセージで送った。

 するとすぐにスマホに返信メッセージがポコン。


『ありがとう、買い物しておこうか?』


 和臣の、なにげに気が利くこういうところは、瑞希にとって好ましいものだった。

 瑞希は足りなそうな食材を打ち込み、メッセージを送る。


 気づけば頬が緩んでいた。

 そんな自分に気がついて、ちょっと落ち込む。

 天堂くん相手だと、こんなに緊張もせずやりとりできるのになぁ。と。


 他の人にはうまく接することができないことに、瑞希はコンプレックスを感じている。

 人見知り、と当人は言うが、実際は対人恐怖症にも近いレベルの状態なのだ。深刻な問題であり、いずれこのままだと瑞希の社会生活はどこかで綻んでしまうことだろう。


 どうにかしたい、と思っている。

 瑞希は大きく溜息をついた。



 ◇◆◇◆



「今日はのっけから浮かない顔をしてるじゃないか」


 その日、瑞希がバイトのシフトに入って間もない時間。

 カウンターの中にいる時子が、興味を隠そうともせず瑞希に声を掛けた。


「なんだい? 話聞こうか? ん?」

「あはは……。大丈夫です、なんでもありませんから」

「そう言うなよ、暇なんだ」


 暇というのは言葉の通りで、今は客が一人もいなかった。

 夕方四時過ぎ、小さな個人喫茶店にとっては微妙な時間帯だ。もう少し時間が経つと、食事目当てな客がやってくる。

 だが今は、奥の四人席を和音が陣取ってビーズ遊びに集中する余裕がある状態だった。


「……暇、ですか」

「そう暇。あたしの暇つぶしに付き合ってくれ給えよ、ほら、座って座って」


 ニッコニコで要求する時子。

 カウンターの外で立っていた瑞希は、逆らえないという風に近くの椅子に座った。

 時子が紅茶を淹れて瑞希にサービスする。暇つぶしの代金、といったところだろう。


 瑞希は紅茶に両手を添え、しばし沈黙。

 やがて一口啜って唇を湿らせると、よくやく口を開いた。


「私、いつまで経っても人見知りが治らないな、と思って……」

「なんだ、その話か。あたしゃてっきり和臣と喧嘩でもしたのかと思ってたのに」


 時子が目に見えて消沈する。

 瑞希は驚いたように紅茶を置き、手を振った。


「そんな、天堂くんと喧嘩だなんて……!」

「まだそんな段階かよぅ。あのな瑞希、聞いたことがないか? 喧嘩するほど仲がいい、って」

「ありますね」

「あれはな、仲良くなってくるとお互いついワガママを言い出してしまう時期があるって意味さね」

「そうなんですか?」

「あたしの解釈ではな」


 時子は説明する。気心が知れると人間、つい素が出てしまう瞬間がある。ワガママをワガママと自覚せずに言ってしまうときがある。

 ワガママは喧嘩のモト。

 相手に気を遣うばかりの時期が過ぎて、気の緩みから喧嘩に発展していくのは、仲良くなっていく過程での鉄板事案。――なのだそうだ。


「おまえら、そろそろ時期かと思ってたんだけど、まだまだだったかぁ」


 アテが外れたとばかりに肩を落とす時子。

 好き放題にいう時子の言葉を、瑞希は「なるほどなぁ」と受け入れた。

 だけど、と瑞希は首をひねる。


「天堂くんが怒る姿があまり想像できないんですけど……」

「そうか? あいつしょっちゅうあたしに怒ってるだろ?」


 ――あ。と瑞希は口を押えた。

 言われてみれば、確かに。そうか天堂くんも怒るのか。


「それより瑞希が怒る姿の方が想像できないかもなぁ。だからこそ興味があったんだが」

「私だって怒ることはありますよ?」

「へえ! どんなときだい!?」


 近い話では、ミオンで叔母に両親のことを揶揄されたときに怒った気がする。

 ただ、その話はちょっと時子にしにくいと思った瑞希だ。誤魔化すことにした。


「どんなとき、うーんどんなときでしょう」

「なんだよ自分でわかってないんじゃないか。まあそうだよな、そんなすぐ怒れるなら、瑞希はもうちょっと人付き合いもできてるはずだしな」

「そういうものですか?」

「怒れるってことは良くも悪くも自分をぶつけるってことだからな。怒れる奴は人と付き合えるよ、もっともその結果がどうなるかは怒りやすさの程度や怒る内容によってくるが」


 時子はこの時間から酒を注ぎ、少し舐めた。


「子供はもっと怒っていけよ。ワガママでいいんだ」


 そのとき入口のガラス戸に付いた鈴がなった。客がきたのだ。

 いらっしゃいませ、と瑞希は椅子から立ち上がって客を迎える。だがやはり、態度も言葉も硬いままだった。


 やれやれ、と時子は苦笑した。

 難しい子だねぇ、と頭を掻きながら、接客をする瑞希の後ろ姿を眺め続けた。



 ◇◆◇◆



「天堂くんは、自分で自分をよく怒る方だと思いますか?」


 瑞希が夕食の席で和臣に訊ねる。

 和臣は少し言葉を反芻するように虚空を見つめてから。


「んー。そうだね、結構怒るかも」

「そうなんですか? どんなとき?」

「純也が俺のパンを盗み食いしたときは真面目に怒ったし、俺が作ったスパデティを時子さんが酷評しながらも横からちょいちょい摘まんでいったときにも怒ったっけな」

「食べ物に関することばかり……。もしかして天堂くんは食いしんぼさん?」

「べ、別にそんなことは!」


 動揺している和臣のことを、瑞希はカワイイと思った。クスリと笑いが零れる。

 瑞希が笑っていると、横から和音が手を上げた。


「わーちゃんは怒りませんよ!」

「嘘です。わーちゃんはすぐ怒ります」

「怒りませんですし!」

「ほらもう怒った」

「怒ってません! ぷんぷんしてるだけ!」


 そんな和音を見て和臣が笑っている。「なんで笑ってるんですかカズオミお兄ちゃん!」と和音はまた怒った。なるほど、と瑞希は思う。程よく怒るのは仲良くなる為の秘訣なのかもしれない。


「て、天堂くん、私も怒ってますよ?」


 瑞希は言ってみた。


「え!?」


 と和臣が意外そうな顔をする。


「なんでかな? なにに怒ってるの?」

「……えっと、あの、その」


 瑞希は考える。

 計画性のない発言だった。瑞希は親しい相手に対しては案外勢いで喋るのだ。

 言ってはみたものの、思いつかなくて頭がグルグル。

 瑞希は目をつむって顔を赤くした。


「天堂くんは、私の胸を触りすぎです!」

「ぶーっ!」


 噴き出す和臣。


「初めて喋ったときも! このあいだのプールの練習のときも! 天堂くんはエッチさんで良くないと思います!」

「ぜんぶ不可抗力だったよね!?」

「そうですね!」


 すぐに納得してしまう瑞希だった。ここで強引に怒ってみせることだってできるのだが、瑞希にはそれができない。結局瑞希は、怒ることに向いていないのだった。



 ◇◆◇◆



 果たして瑞希は怒ることができるのだろうか。

 叔母さんのときくらいに詰られなくては怒れないのだろうか。

 答えはあっけなく訪れた。


「あぶない天堂くん!」


 とある帰り道、和音とふざけていた和臣が、勢いで車道に飛び出してしまったのだ。

 車にクラクションを鳴らされる和臣。

 瑞希は怒った。和臣と和音を怒った。二人はシュンとなり、瑞希に謝った。


 その日の夜中に瑞希は気づいたのだった。

 あれ? 私、今日怒ってた、と。


 そしてわかった。怒る、ということはなにかに対して本気になることだ、と。


「私……他人に対して本気じゃなかったのかもしれない」


 そんな自分を、瑞希は恥じた。

 そうか、理由は全部自分の中にある。適当に話を合わせて、適当に時が経つのを待って、そうだ自分は周囲に対して誠実でなかったに違いないのだ。


「わかったんです、時子さん!」


 ちょっと興奮気味に、時子に報告をする瑞希。


「天堂くんとわーちゃんのおかげで、怒るってことがどういうことかわかりました!」


 時子は聞きながら、うーん、と心の中で苦笑した。

 そういうことが言いたかったんじゃないんだが、と苦笑した。

 時子はもっと単純に、自分勝手になってみろよ、と言いたかったのだ。けれども瑞希はよほど根が真面目なのだろう、まったく正反対の解釈をして戻ってきたのである。


「だから私、友達にもお客さまにも、もっと真剣に向き合えないかなって……!」

「あーね、うん」

「そうすれば、きっと私ももっと……!」

「なるほどな、うん」


 そして入口ガラス戸の鈴がなった。

 瑞希がやる気に満ちた顔で接客に向かう。


「い、いらっしゃい……ませ」


 しかし次の瞬間には態度も言葉も硬いまま。

 だけど、ちょっとだけ。ちょっとだけ今日はいつもと違う。

 今日の瑞希は、客と目を合わせることに成功したのであった。


 それを見た時子は頭を掻きながら苦笑する。


「38万キロの彼方も最初の一歩からってね」


 きっとその一歩は、瑞希にとって偉大な一歩なのだ。

 彼女が変わる為の、第一歩。


 頑張ってみろよ。

 時子は心の中で、そう瑞希を応援したのだった。



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