第15話 佐伯純也
「小手ぇぇーっ!」
七月の放課後。風通しの悪い道場で俺は一年半振りに竹刀を握っていた。
純也の竹刀が防具の上から俺の手を叩く。技ありだ。
俺たちは開始線に戻り、蹲踞(そんきょ)をして納刀した。
礼まで終えた純也が、面具を外す。俺も外して顔の汗を拭いた。
「強くなったな純也。もう俺じゃ敵わないか」
「なにいってやがる、俺は二年にしてこの部で一番強いんだぞ? 一年以上のブランクがあってそこまでやれる方が異常なんだ」
純也が俺の頭をコツン、と小突いて笑う。
「和臣が剣道辞めたのは惜しいよなぁ。続けてりゃ当然俺より上だったろうに」
「仕方ない。ウチの親は知ってるだろ? 剣道とか忌み嫌ってるからな」
「確かに。おまえのかーちゃん怖かったわ」
おどけながら肩をすくめてみせる純也。
俺にポカリのペットボトルを投げてよこすと、校庭に向けて開かれた軒先に座ろうと促してくる。
「サンキュ」
スポーツドリンクが凄く美味しく感じられた。
火照った身体が欲していたのがわかる。
夏の道場では水分補給を欠かしてはいけない。剣道は面具を始めとした防具を付けるので、とても汗を掻くのだ。
軒下に座ると爽やかな風が心地よかった。
外した胴を横に置き、胴着の裾をはだけて風に当てると一気に熱が引いていく。
横でポカリを飲み終えた純也が、俺の顔を見ずに言った。
「どういった風の吹き回しだよ?」
「ん?」
「道場に顔を出すなんてさ」
「ああ」
俺もまた、純也の顔を見ずに。
「たまにはいいか、と思ってさ」
そう言って笑った。
このあいだ高嶺さんに剣道の話をして、少しすっきりしたのだった。
剣道を辞めたことに、今なら向き合える気がした。
だから、久しぶりに竹刀を持った。
「そっか……、そうだな。たまにはいいよな」
純也と俺は、そこからしばらく無言で軒下の風を楽しんだ。
目の前に広がるグラウンドでは、野球部やサッカー部が練習をしている。
そんな活気ある風景が、俺にはちょっと懐かしい。
この一年、そういうものから目を逸らしていたような気がした。
「覚えてるか和臣? 初めて俺たちが剣を合わせたときのこと」
「もちろん。あの時は俺が純也のことをコテンパンだった」
「そうそう、中学の部活でな。俺も道場通いしてたから、マジでヘコんだよ」
俺は肩をすくめて純也の方を向いた。
「本当にヘコんでたのか? だっておまえ、次の日」
「次の日俺は和臣にまた挑んだんだよな、納得いかないって」
純也もまた、俺の方を向いて笑う。
「あのときの純也はめっちゃしつこかったなー」
「結局、一本だけ面をとれるまで、一週間だっけか?」
「そう。一週間毎日俺に挑んできた」
俺たちは二人、膝を叩いて笑いあった。腹を抱えて笑い、苦しくなるまで笑った。
純也が、ヒーヒーと息を切らしながら背を伸ばし、寝転がる。
「うぜーな俺」
「うざかったぞー」
横で寝転がった純也を見やり、俺はクスリと笑った。
純也はまだ息を切らしながら、
「ところで時子さんは元気なの?」
「ん? ああ。元気元気、あいかわらず唯我独尊」
「いいのかそんなこと言って。最近毎日お弁当作って貰ってる身だろ?」
羨ましいぞ、このぉっ! と、寝転びながら俺の脇腹を突いてくる。
そうだった、そういう設定になってた。
「時子さんの料理うまいもんな。中学の頃、練習後に『トレジュアボックス』でよく食べさせて貰ったのが懐かしいよ」
「あはは、懐かしいな」
「高校に入ってからご無沙汰だ。一度挨拶に行かないとなー」
――! それは困る。
今は高嶺さんがアルバイトをしているのだ、かち合ったら面倒なことになってしまうじゃないか。
「あ、いや。今は止めといた方がいいかな。このところ時子さんは機嫌が悪い」
「なんで?」
「え、さあ? ……馬が言うこと聞いてくれない、とか言ってたかな?」
「あいかわらず競馬好きなのか。笑う」
競馬で負け続けだから機嫌が悪い。――若い女性に対してだいぶ酷い風評被害な気もするが、純也は普通に納得したらしい。つまりは時子さんが普段からどう見られていたか、という話だ。そこに関しては俺が悪いわけではない。だからごめん、時子さん。
俺も純也に倣って軒下に寝っ転がった。
また、俺たちはしばらく無言だ。
道場ではまだ練習している剣道部員の声と音。グラウンドでは野球部の声と音。
汗を掻いて寝転んでいると、さわさわと頬を撫でる風が一層気持ちいい。
近くの木の葉を揺らしてくるからだろうか、風には緑の匂いが乗っていた。
「最近なんか良いことあったんだろ?」
突然、純也が言った。俺は少し間を置いて、
「なんでそう思う?」
と訊ね返した。
「和臣、気づいてないのか? おまえこの頃いい顔してるぞ」
「へえ?」
そうなのか? 自分ではわからない。
「そんなにか?」
「そんなに、だ」
純也が嬉しそうな声で笑う。
そうだな、嬉しいことは、あった。色々とあった。和音ちゃんと出会って、高嶺さんと話して、二人と仲良くなって。
だけどこれは純也には言えない。少なくとも今はまだ。言えば高嶺さんに負担を掛けてしまいかねない。
どう誤魔化そうか、俺は悩む。
「純也、俺……」
「いいよ和臣」
「え?」
「話せるときになったら、でいい。今はまだいい」
寝っ転がったまま、純也が俺の頭をくしゃりと掴む。
「俺もおまえのことを心配してる。それは覚えておいてくれよな」
ああ、こいつは。
「……うん。すまない」
俺は純也の好意に甘えた。今は言えない。だからこいつに感謝しながら、甘えた。
「ワックの素バーガー四個」
「……二個で、純也」
口止め料。問わない料。こういうのをどういうべきなのかわからない。
俺たちはこうやって、よく奢り合う。儀式のようなものだった。
「三個だな」
純也が笑った。これで俺たちの契約は成立だ。『奢らせてやる』のが、俺たちなりの思い遣りの形なのだった。
――そんな、なんでもない一日の話。
俺はもう一度、大きく伸びをした。
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