第17話 笑顔に

 一学期の終業式を終え、夏休みに入った。

 成績はまずまずだと思ったのだが、海外在住の親には良い顔をされなかった。


 なので最近俺は、高嶺さんに勉強を教わっている。

 高嶺さんは期末テストでも学年一位の成績優秀者、正直なんでこの学校に進学してきたのかもわからない。高嶺さんならもっと良い学校にも進学できただろうに。


「うちは共働きだったから、わーちゃんの送り迎えを手伝おうと思って」


 だから家に近い学校を選んだのだという。

 勉強をしながらの雑談は、俺の興味を大いに満たしてくれた。


「……おそといきたい」


 近くで寝転んでお絵かきしていた和音ちゃんが、突然言い出した。


「あまり遠くにいっちゃだめだよ? わーちゃん」

「いいんじゃない、和音ちゃん。そろそろ夕方だから、少しは涼しそうだし」


 テーブルで勉強中の俺たちは、参考書に目を落としながら和音ちゃんに応える。


「ここどうすればいいの? 高嶺さん」

「あーここはね……」


 勉強中。勉強中。勉強中。

 ときおり雑談を混ぜていたとしても、基本的に俺たちは勉強に夢中だった。


「おそといきたいです」

「え、だから遠くにいっちゃだめって……」

「わーちゃんはみんなでおそといきたいですよ?」


 和音ちゃんの言葉に、高嶺さんが俺の方を見る。

 俺たちは目を合わせて納得した。

 そうか和音ちゃんは三人で外に遊びに行きたかったのだ。


「あーね、なるほどそうだな……」


 俺は参考書を見た。まあ、概ねキリのいいところまではやった気がする。

 そう考えて参考書を閉じると、和音ちゃんの目が輝いた。


「いいですか!?」

「いいよ、みんなで外いこうか」


 俺は笑ってみせた。

 高嶺さんが困り顔で俺に謝罪する。


「ごめんなさいわーちゃんがワガママ言っちゃって」

「ちょうどキリだったしね。どうしよう、アイスでも買って公園で食べようか?」

「アイス!」


 和音ちゃんがまた目を輝かす。


「アイスは大好きです!」

「俺も好きだ。よしそうしよっかー」


 こうして俺たちは、散歩に出ることにしたのだった。



 ◇◆◇◆



 マンションの外に出ると、ムワっとした暑い外気が俺の身体に絡んできた。

 蝉の声がうるさい。夕方が近いから涼しいなんて甘かった、こりゃ暑い。


「おおお、身体の温度がいきなり上がってきた。やっぱり夏だなぁ」

「今日は私たち、ずっと部屋の中にいたから。暑さに身体が驚いちゃってるのかも」


 夏の暑さに俺たちのテンションも上がり気味だった。

 そうだよな、夏はこうでなきゃ。

 吹き出てきた汗を肯定するように、俺は頷いてみせる。


「はやくいきましょう!」


 暑さに立ちすくんでいた俺の背後で声がした。

 振り向く間もなく先頭に立った和音ちゃんが、元気に一人で先を走り始める。


「うわっ、元気」」

「わーちゃん走ると危ないからー!」

「だいじょうぶー」


 和音ちゃんは走りながら戻ってくる。

 そして、もう少しで俺たちにタッチ、というところで見事つまづいた。

 つんのめって高嶺さんに寄り掛かる。


「キャッ! わーちゃん!?」


 慌てて和音ちゃんを支える高嶺さん。

 バランスを失っている和音ちゃんは、高嶺さんに抱きつきながら引っ張った。

 なにをって、彼女のスカートを。


「もー、だから言ってるのに。走っちゃダメだからね?」

「ごめんなさいー」

「ね、天堂くん。わーちゃんたら危ないん――天堂くん?」


 思わず俺は凝視してしまっている。

 水色のパンツが、ズリ下がったスカートの下から覗いている。というかあの水色パンツ、もしかして先日ミオンで買ったものなのじゃないか?


 だとすると高嶺さんは、俺が選んだパンツを穿いているのではないか? 俺はあのパンツをじっくり見た。今も詳細に思い出せる。なるほどあのパンツ……。うお!? なんというか、これはとってもエッチなことなんじゃないか?


「きゃあもう! 天堂くん見ちゃダメだから!」

「うわわ! ご、ごめ!」


 俺は目を逸らした。

 つい魅入ってしまったことを恥じる。いやでも仕方ないよな、高校生男子なんだから。

 高嶺さんは和音ちゃんの頭を軽く小突いた。


「もぅ、わーちゃん悪い子! めっ!」

「ふしぎです! なぜかカズオミお兄ちゃんのせいで怒られてる気がします!」


 その通りだよ和音ちゃん、和音ちゃんは本当にカシコイね。

 俺はとばっちりな和音ちゃんに謝罪することにした。


「アイス、三つ乗せでいいからね和音ちゃん」

「ほんとうですか!? ヤッター!」


 謝罪だよこれは。決してお礼じゃないから。



 ◇◆◇◆



 アイスを買い(ちなみに高嶺さんにも奢った。普段遠慮がちな彼女が、今日はにこやかにオゴリに応じてくれたのは何故だろうか)、駅から少し離れたところにある大公園に。

 ここは総面積が学校のグラウンド五枚分ほどの広さを誇る、市民の憩いの場だった。

 近くに湖沼があり、カップルがボートで遊ぶ姿もよく見受けられる地元の名所なのだ。


「アイスおいしい!」

「おいしいねーわーちゃん」


 和音ちゃんはトリプル、高嶺さんはダブル。

 それぞれのアイスを舐めながら、ベンチに座っている。


「あのー高嶺さん」

「なんですか天堂くん?」

「怒っておられますか?」

「怒られるようなことをしたのですか?」

「いえあの」


 高嶺さんはにこやかだ。一点の曇りもない顔でにこやかだ。ただ、なんか怖い。


「座ってもよろしいでしょうか」

「自分の胸にお聞きください?」

「怒っておられますか?」

「どうでしょう?」


 自分の胸に聞いてしまうと、俺はどうにも座ることができない。

 俺は立ったままアイスを舐めて、小さくなっていた。宿題を忘れて先生に立たされるというのは、こういう気持ちなんだろうか。


「ふふふ」


 と、高嶺さんが悪戯っぽく笑う。


「いいですよ天堂くん、座ってください。今日は私、少し怒ってみました。どうですか? 私はちゃんと怒れてましたか?」


 俺は立ちながらも上目遣いで高嶺さんを見る。


「……怖かったよ? 高嶺さん結構迫力あるんだね」

「よかった。ちゃんと怒れたみたいで嬉しい」

「お姉ちゃん、なんでカズオミお兄ちゃんを怒ってたのー?」

「お兄ちゃんねー、お姉ちゃんのことをエッチな目で見てたの。だから、ちょっとね」


 うふふ、と笑う高嶺さんはすごく嬉しそう。

 俺は和音ちゃんを高嶺さんと挟み込む形で、椅子に座った。


「カズオミお兄ちゃんはエッチなの!?」

「そう、エッチなんだよー?」

「カズオミお兄ちゃん、エッチってなんですか!?」


 俺は舐めてたアイスを崩しそうになった。これは説明しにくい。


「えっとな? うーんと」


 俺はしどろもどろに。


「俺が高嶺さんのパンツをじっと見てしまった、って……こと。――かな?」


 なんて説明していいのかすらわからない。

 たぶん和音ちゃんには、こういっても意味がわからないだろう。


「パンツ見るのがエッチなんですか!?」

「うん、まあ、そうかな?」

「なるほど! カズオミお兄ちゃんはエッチさん!」


 喜ぶ和音ちゃん。意味わかってないんだろうなぁ。


「あ、ワンワン!」


 そういうと和音ちゃんは、近くで犬の散歩をしていたご婦人の方へと走っていってしまった。「ワンワーン」と和音ちゃんが近づいていくと、ご婦人は笑顔で立ち止まった。


「もう、わーちゃんたらまた走って」

「元気だねぇ、和音ちゃんは」


 俺たちは横並びに座ったまま、クスクス笑いあった。

 よかった、いつもの高嶺さんだ。


「……今ね、私、怒る練習をしてるんです」

「怒る、練習?」

「はい。自然に怒れるようになったら、自然に笑えるようにもなるかな、と思って」


 彼女は笑う。


「そうなれたら人見知りも治る気がするの」

「笑う練習じゃ、ダメなの?」

「笑うのは……天堂くんの前なら普通にできますから……」


 うおっと! しまった、なんかこれは恥ずかしい。不意打ちを食らった気分だ。

 俺は立ち上がると、和音ちゃんの方を指差した。


「ほ、ほら! 和音ちゃんが犬と遊んでる。行ってみない?」

「そうですね」


 和音ちゃんは自分の身体くらいある大きさの犬と戯れていた。

 飼い主のおばさんは良さそうな人で、俺たちが近づいて挨拶をすると、穏やかに会釈を返してくれる。


「かわいいワンちゃんですねぇ」


 俺が言うと、おばさんはクスクスと笑い、


「いいえぇ、お兄さんの彼女さんには敵わないわぁ。ほんと可愛くて、綺麗なお嬢さん」


 俺と高嶺さんは目を合わせた。

 俺は笑う。やぁ、本当に良い人そうだ。


「舐めないでください! 舐めないでください!」


 和音ちゃんは犬にペロペロ舐められまくって笑っている。楽しそう。

 そんな和音ちゃんを見てる俺も、つい顔が綻んでしまう。


「お嬢さんの妹さん?」

「えっ、あっ? ……はい」

「そうよね、とても似てるわ、可愛らしい」

「あのっ、その……、ありがとう……ございます」


 人見知りの高嶺さん。――だけど今日は。


「うふふ、貴女も可愛らしい笑顔ねぇ」


 頑張って笑顔になってみせたのだった。


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