レンタル彼女で娘を借りた。

杜侍音

レンタル彼女で娘を借りた。


 レンタル彼女で娘を借りた。


 料金は五時間で四万円だった。



「ごめんね、電車が遅延してて……待たせちゃったか、な……。は……?」


 十二時を少し過ぎた頃。

 渋谷のハチ公前。

 人だかりの中から、伝えておいた私の特徴を頼りに声をかけてきたのが私の娘だ。

 本当に来るのが娘なのかと半信半疑ではいたが、私の目に間違いなかった。


「……5分遅刻だ。時間にルーズなのは、妻とそっくりだな」

「なんで……何でお父さんがここにいるの。わたし、彼氏と待ち合わせしてるから──」

「今日の彼氏は私だ。美緒みお

「……最悪」


 娘は現在21才。

 亡き妻との間に産まれた一人娘だ。

 都内の私立大学に通う女子大生だが、このようなバイトをしているとは思ってもいなかった。

 残暑がしぶとい9月上旬。薄いピンク色の生地に黒いレースなる装飾が付いた服を身に纏った娘の肩や脚の露出に、父として看過できない。

 だが、私も相手が娘だと推定した上で、クリーニングから帰ってきたスーツを着て来たから、人のことは口に出せない。

 だが、これが大人の勝負服だったのだ。許してほしい。


「何。わたしのこと止めにきたの?」

「いや。お前がどうしていようと私に迷惑がかからないのであれば、好きにすればいい」

「ちっ……。あぁ、そう。ねぇ、帰っていい」

「お小遣いが欲しくて、くだらないバイトをしてるんだろう。少し上乗せしてやる」

「……今日だけだから」


 娘と直接話すのは実に数年ぶりであった。

 親権は当然私の元にあるが、進学を機に彼女は一人暮らししている。妻が亡くなってからは実家に顔を出したことは一度もない。



「大学はどうしてる。ちゃんと行ってるんだろうな。学費を出してもらってるからと稼いだ金で遊びに呆けて──」

「まずは料金の支払いから。前払いなの、うちの会社は」


 近くの喫茶店に場所を変えた。

 茶封筒に上乗せ分を含めた六万円を、娘に手渡した。

 娘は中身を数えた後に鞄にしまうと、「お客様には踏み入ったプライベートなことをお教えできません」と、張り付いた笑顔で言った。


「美緒、ふざけるな」

「わたしはマオですよ。……わたしからもお客様の個人情報については問いません。どうしてわたしを選んだのか、何でレンタル彼女サービスを利用しているかなど……次、わたしの名前で呼んだら帰るから」

「……分かった」

「──マオ、と気軽に下の名前で呼んでよ」

「……マオ」

「はい、オサムさん。さてと、どこ行くの?」


 コーヒーを二杯分払い、私たちは上野にある動物園と向かった。

 タクシーを呼ぼうとしたが、密室空間に二人きりは禁止されているからと、電車での移動となった。

 普段は自家用車かタクシーでの移動の私にとって、公共交通機関を利用するのは久しい。

 それこそ最後に乗ったのが、美緒がまだ小学生の頃、家族三人で動物園に訪れた時だった。

 外の景色を見ようと、美緒が座席に足を乗り上げていたことを怒ったのは覚えている。


「動物園か……懐かしいなぁ……」


 土曜の昼は乗客が多い。

 娘は扉にもたれかかりながら窓の外を眺めていた。

 レンタル彼女のていは守っていようとも、相手が私ならば、男が持つ理想的な女性像とはかけ離れた態度であからさまに接している。

 評価を付けるならば迷わず最低評価にするだろう。


 レンタル彼女とのデートでは、全て奢るのが鉄則。

 入場料も、園内での食事も動物グッズも──意識しているのか、無意識であるのか。娘はあの頃の妻と同じものを選んでいた。


「オサムさんは動物園が好きなの?」

「嫌いだ。動物特有の臭いが気分を害する」

「あぁ、そう、ですか。じゃあ、なんで……」

「妻が好きだったんだ」


 初デートの時も、誕生日に連れて行って欲しいところも、必ず動物園だった。

 最初以降、私は行きたくないと告げていたが、強引な彼女に根負けして、美緒が生まれるまでは月一で訪れるようになっていた。


「パンダ可愛いですもんね」

「ああ。だが、妻が好きなのはフラミンゴでね」



 ──淡い紅色に染まった羽を纏う鳥類。

 妻は目玉のパンダなどには目をくれず、いつもフラミンゴ舎にいた。数時間経つこともあった。


『屋根がないのに逃げないのか』

『逃げられないのさ。フラミンゴは飛ぶ時に助走がいるから、狭くて飛べないんだ。空に出口があるというのに、いつもみんなと一緒にいる』

『哀れだな』

『そういうとこが可愛いんだよ』


 画材を取り出した妻はその辺に腰掛けて、絵を描き出した。

 妻の感性は世間とはズレていた。

 たい焼きを食べる時は必ず腹から。

 手持ち花火は地面に刺して、ライターの方を手に持って火を付ける。

 周りがスマホを持ち出し始めても『使えなくなるまでは使う主義なんだ』と、初期のガラケーを死ぬまで愛用した。

 だが彼女は芸術家として、界隈ではそれなりに知られた人だった。

 一つ描いた絵に私の年収の値が付くこともあった。

 それに引け目を感じながらも口出しはせず、私は私の仕事を淡々とこなしていた。


「──奥さんのこと、どう思っていたんですか」

「プライベートなことは聞かない約束じゃないのか」

「ただの世間話ですよ。それにこの話を始めたのはオサムさんじゃないですか。普通のお客様は何も聞いていないのに、見栄をベラベラ全部喋るんです」

「酷い言い草だ。彼氏だったろ」

「一時だけなので。もちろん、オサムさんも」


 これは相手が私だからか。

 それとも美緒本来の仕事への取り組み方なのか。

 あるいは──


「……妻には嫉妬していた。才ない私にとって、彼女の存在が目障りだった」

「じゃあ、何で結婚したんですか」

「一般人より面白い女性だったから、かな。そういう変人に憧れていた時期もあったのさ」

「……好きでしたか」

「言葉にしたくもない」


 愛の文言など、一度も素直に言い表したことがない。

 それは彼女も同様だ。

 我々は普通のカップルや夫婦のように愛を確かめ合ったりはしなかった。


「ああ、そう。では、奥さんのこと愛してなかったから、昔のことなんか忘れて色んな女の子とデートしてるんですね」

「美緒、私は」

「わたしはマオ。まだマオだから。……オサムさん、そういえばゴールド会員でしたっけ。たくさんの女の子とデートして楽しいですか。そりゃそうか、奥さんより仕事が大切だったもんね。ずっと、今でも」

「……私は後悔しているんだ。あの時なぜ病院に行かなかったのか」

「……今さら反省しても遅いでしょ。わたしは一生許さないから──パンダ、見に行きたい」


 娘は呟くと、マオへと戻りながら歩き出した。

 家族で訪れたのは、振り返れば一度だけだった。

 娘が好きだったパンダを最初に見て、色々と巡ってからフラミンゴ舎に辿り着く順だった。

 さすがに我が道を行く妻であっても、愛する娘を最優先していた。



 ──私とはいつも優先順位が逆だ。

 好物を最初に食べるか最後に食べるのか。

 歯を磨いてから朝ご飯を食べるか、食べてから歯を磨くか。

 毛布が上か羽毛布団が上か。

 何もかもが、いつだって逆だった。

 ただ私は常に従うようにしてきた。芸術家である彼女のルーティンを崩さないためと、私が私から脱却するため。


「楽しかったー。もう終わっちゃいましたね、楽しい時間はどうして相対的に早く感じるんだろう。さて、次はどこに連れてってくれますか?」


 あの頃とは違い、一瞬立ち止まっては通り過ぎて、他の動物たちも全てすれ違っては、動物園をすぐ後にした。



『──ここから徒歩だと? 深夜だぞ?』

『夜のウォーキングは健康に良いのさ。どこぞの高名な医者や作家気取りの論文家が口揃えて言っているんだ。それに成金の芸術家もね』


 目の前には反り立つ壁があった。傾斜角15度とあるが嘘を付いている。ウォーキングではなくクライミングである。

 しかし妻は飄々として突き進んでいく。

 今は芸事で花を咲かせているが、身体能力を活かしたことにも成績を残せるだろう。


『どうしたー! 体の使い方を忘れたのかー?』


 坂の頂上で妻が叫んでいる。近所迷惑だ。

 あまり運動などしてこなかった私を容赦なく置いて、先に行ってしまうような人だった。



「──ねぇ、大丈夫? 息あがってるけど、休憩する?」


 隣で歩いている娘は若さゆえなのか、汗一つかいていない。

 妻の血を色濃く引き継いだ娘の横顔を、あの日々には見ていない。いつも見てきたのは後ろ姿だった。


「もうすぐだ……。目的地は近いからこのまま歩く」

「……もう、時間です。今日はありがとうございました」


 振り返れば、日が沈みかけていた。

 空は虹色に連なり、街は橙色に染まっていた。


「もう、タクシー使っていいから」

「……美緒か」

「そう、だけど、やっぱあんたじゃ無理。調子狂う」

「だろうな」


 レンタル彼女としてのマオはとっくに剥がれ、娘に戻っていた。


「……ただ、あと少しなんだ。延長料金は払う」

「うちのはそんな制度ないから」

「もう少しだけ、マオでいてくれ」

「……分かった。この上まで。そこからは知らない」


 今日初めての身体的接触があった。動悸を起こしたのは体力の低下によるものだ。

 娘に支えてもらい、私たちは目的地まで辿り着いた。

 辺りは既に暗い夜。眼下には白い光が無数に散らばっていた。


「……ここは私が麻緒まおに告白をした場所だ。あれは朝日が昇る時だった」

「……そう。わたしは別にあんたの昔の惚気話聞きたいわけじゃないんだけど。もうここにタクシー呼んだから」

「美緒──どうして妻の名前で登録していたんだ」

「……普通に考えて本名で登録するわけにはいかないでしょ。個人情報保護ってやつ?」

「写真だけでも美緒だと分かるものだった。……妻にとてもよく似ている。最初は目を疑った」


 マオの名に、麻緒とよく似た顔付きと表情。

 インターネットの中に妻が生きて帰ってきたのかと思った。彼女なら唐突にやりかねない。


「どうしてお金が必要なんだ」

「言っても無駄でしょ」

「答えろ。何故いつも何も言わない。このバイトについても、進学も、家を出て行った時もそうだ。お前はいつも勝手に──」

「……っ! ……誰が、言ってんだよ……あんたはいつもわたしを否定するくせに、お母さんが亡くなった時だって来なかったくせに! 今さら父親面すんなよ!」


 妻は難病に罹ってしまった。

 脳の病気だった。

 それは百万人に一人という奇跡のような確率だった。覚えたくもない長苦しい名前のものだった。

 金をいくら積もうとも治療方法はなく、知識をいくら蓄えた医者にも手は尽くせない。

 この才能を消してはいけない。私は身を粉にして世界中探し回った。ただ、私にはもうどうしようもなかった。

 そして結果として、妻の最期に私は立ち会うことができなかった。

 病院から症状が突如悪化し危篤状態だと連絡を受けたが、あの自分を信じてやまない妻が苦しんでいることが受け入れることができず、私は逃げてしまった。


「わたしは女優になりたいの。でも簡単な世界じゃないから。成功するまで、生きていくお金がいる。だから少しでも稼げるバイトをしてんの。あんたの力は借りたくない。お母さんよりも大切な仕事で稼いだ金で」


 娘はそのことを知らないし、言いたくもない。

 これはくだらない私の見栄だ。

 その後、妻の半身でもあるはずの娘と向き合うことはなく、自身をも否定して私は姿形の似ているだけの別人に面影を重ねるようになった。


「演技の練習にもなるのよ。相手が求めるキャラクターや会話の練習にもなるし」


 心の穴を埋めるように、似たような女性ばかりを連れて何度も何度も同じデートを繰り返した私と同じく、娘もまた自身の成長のために何度も練習をしたのだろう。

 ただ、美緒の前では優しい母だった麻緒。

 娘の知っている母だけでは、私が思い描く妻にはなれはしなかった。


「……このままなら女優にはなれないだろうな」

「ちっ……そうやって、また否定を……!」

「お前は不幸にも、私に似てしまった」


 夢に向かって意地を張り、足掻く娘に私は自己を投影してしまった。

 だからきっと否定したくなる。

 


『──私は君が嫌いだ』

『ふむ。告白ってのはそのような言葉を使用するものだったかな。私の気を惹きたいからと奇を衒っただけではどうかな』

『そうか。響かないか』

『素直に、好きだ。結婚してくれ。でいいじゃないか。私だって乙女だぞ。……君は何を焦っているんだ』

『私は君のようになれなかった』

『私じゃないからね』


 妻と初めて出会ったのは都内の芸大だった。

 二浪した末に入学した私は、本物の天才に出会い、早々に挫折した。

 心を折ったのはもちろん麻緒のせいだ。現役入学した彼女はすぐさま個展を開いてみないかと誘われるくらいには才能を開花させた。

 努力が足りないだけだと自分を追い詰め、無理やり追いつこうとした。


『絵を描き始めたのは去年だったかな。テストが退屈で裏に落書きを描いたところから』


 彼女に敵うはずもなかった。

 二年の秋、私は筆を折った。

 芸術で食うことは諦め、三年の冬に飛び入りで参加したインターン先の企業にそのまま就職することとなった。


『……私は君の絵が好きだったけどな。必死に踠く姿がとても愛らしい。それに──』

『もういい。もういいんだ』


 彼女もまた、彼女が持つことのなかった才なしの気持ちを知りたかったのかもしれない。

 ただ、それでは私が惨めなだけじゃないか。


『そうか。伝えたいことはまだあったが、そうだな……ひとまず私も結婚しようと考えていた。一緒に暮らそうじゃないか。そしたらいつでも続きを伝えることができるだろう?』


 いつもは何でも見透かす彼女も、死期までは見通せなかったらしい。

 私に続きを教えぬまま、先に逝ってしまった。



「才能とは儚いものだ……何もかもを奪っていく。だから、私は今でも妻が嫌いだ」

「……嘘が下手。なるほどね、わたし、あんたの方に似たのか。……最悪」


 ──クラクションが鳴り響く。 

 タクシーが迎えに来たようだ。随分と態度の悪い運転手だった。


「……わたしは近くの駅までで。その後、ここの住所まで──」


 気付いた娘が駆け足で向かい、タクシーに乗り込む。

 私も夜景を背にして……その時一通のメールが届いた。


「……ねぇ、早く乗ってよ。ねぇ……何してんの」


 嘘偽りのない娘の心配する声。

 私は地面に蹲り、ただただ泣いていた。大人として情けないほどに嗚咽を漏らした。


「ちょっと! 大丈夫なの⁉︎ 何見て……メール……?」

「ずっと待っていたんだ……あの日の……続きを……」

「……誰から」

「美緒の母親だよ」



   ◇ ◇ ◇



『このメールが届いているということは、私はこの世にいないはずだ。なんて、定型文の書き出しから始めてみたよ。』


 私と美緒はタクシーの後部座席に座り、麻緒からの遺言をゆっくりと辿っていた。


『いつ届くだろうね。私の携帯は要領が悪いらしく仕事が遅いんだ。何年後かもしれない。二人がこちらに来るまでには届けばいいのだが』


 長かった。

 七年の月日が経っていた。


『美緒。愛する娘の成長が見れなくて残念だ。死ぬことに恐れはないが、これだけが唯一の心残りだ。ただ美緒が最期に教えてくれた夢、私は叶うと信じているよ。美緒なら何者でもなれるよ。ただ、お父さんは寂しがり屋だ、たまには家に帰ってあげて』


「……お母さん」


『そして……ふふっ、今、娘と喧嘩しているだろ。二人はよく似てるから同族嫌悪というやつかな。娘というのはだな、とても難しいものなのだよ。例えば──』


 ……見透かされてしまった。

 文字だというのに、表情が想像が容易にできるほどうるさい。


『──ねぇ……空は広いが思ったより良いところではなかったよ。地に足つけて歩きたくもなる。壁や天井も歩いてみたかったよ私は』


 画像ファイルが添付されている。

 このせいで、届くのが遅れたのだろう。

 いつの日か描いた絵。空から見た画角に、二匹のフラミンゴが金網の柵をよじ登る絵。

 彼女には何が見えていたのか。今でも答えは分からないままだ。


『──君はいつも自己否定をしていたし、それすらも嫌いだったようだが……私はどう足掻いても君が好きだったよ。君が否定するなら私が永久に肯定してあげよう』


『──君と結婚して良かったと。そして、二人と家族になれて幸せだった。ありがとう』


 ここで本文は締めくくられていた。

 最後の最後で、妻は普通の言葉で幕を閉じたのだった。


「──すみません、やっぱり直接ここに向かってください」


 美緒は目的地を一つ削除した。

 私たちが泣いていることに問いかけもせず、運転手は車を走らせる。

 もし、評価ボタンがあれば気遣いのないとして最低評価を付ける。


「また、レンタルするよ」

「……わたし、意外と人気だから高いよ」

「家族割はないのか」

「ない」

「そうか……なら、次は家族みんなで遊びに行こうか」

「へぇ……どこに?」

「家族といえば、動物園だ」


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レンタル彼女で娘を借りた。 杜侍音 @nekousagi

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