第36話 没落令嬢の従者の一日(4)
目を閉じて黄昏の喧騒に耳を傾ける。
家路を急ぐ足音や、子ども達の笑い声。炊事の音から、神経を研ぎ澄ませて『その一音』だけを絞り込む。
明確な方向を特定すると、コウは目を開けて目的地まで一直線に歩き出した。
彼が辿り着いたのは、長屋の裏手の雑木林。手入れもされず枝が伸び放題な一本の木の幹に、コウは手足を掛けた。
最初は右手と右足、次いで左手と左足。ほぼ垂直にそそり立つ木を跳ねるように造作もなく登っていく。これは木登り仕様に手足の裏を調整しているお陰なのだが、
コウは木の天辺まで来ると、細い梢を覗き込んだ。
「ここにいましたか」
にっこり微笑む彼の視線の先には、茶色のトラ猫が小さな体を更に小さく丸めて震えていた。
「あなたはジョン様宅のロビン様ですね? ご家族が心配していますよ。帰りましょう」
手を伸ばしてくる執事姿の青年に、背中毛を逆立てて怯えていた子猫は、顔を上げてスンスンと指先の匂いを嗅ぎ、それから恐る恐るコウの方へと踏み出した。……しかし、
パキリ。
彼らの重みに耐えきれなかったのか、乾いた音を立てて枝が折れた!
次の瞬間、コウはしっぽを二倍に膨らませた子猫の体を空中でキャッチしていた。そのまま二回宙返りすると、音もなく足から着地する。
「お怪我はありませんか?」
手の中の猫に確認すると、彼は「にゃあ」と返事する。コウは辺りを見回してから、
「あまり人間離れしたことをするとリュリディア様に叱られますから、このことは内緒ですよ」
悪戯っぽく猫にウインクして帰路に着いた。
◆ ◇ ◆ ◇
「ただいまー! ああ、お腹減ったわ」
「おかえりなさいませ、リュリディアお嬢様。夕食の準備が出来ていますよ」
すっかり日が落ちた頃、帰宅した主を従者が出迎える。早速「いただくわ」とダイニングテーブルに向かったリュリディアは、並んだ料理に眼を見張る。
カゴいっぱいのパンに皿に山盛りのポテトフライ、サラダも肉料理も二品ずつあって、温かいスープまでついている。
「どうしたの、これ?」
「たまたまご近所からおかずのお裾分けをいただきまして」
「食器も有名工房のだけど?」
「そちらも不用品をご近所からいただきました。採れすぎたからとオレンジもいただきましたので、デザートにお出ししますね」
サラリと説明されて、リュリディアは怪訝そうに眉を顰める。
「
「承知しております」
恭しく頭を下げるコウだが。実は食卓に並んだ品は、それぞれ『子守のお礼』や『買い物のお礼』や『風呂掃除のお礼』や『猫捜索のお礼』だったりする。
「労働の後のご飯は美味しいわ」
何も知らないリュリディアは、満足気に食事を頬張る。
「コウは今日は何をしていたの?」
「いつも通りです。長屋のお子様達と遊んで、買い物して、猫とも遊びました」
嘘はひとつもついていない。「そう、いいわね」と頷く主に今度は従者が問いかける。
「リュリディア様は、今日はどんなお仕事を?」
彼女はフォークを咥えたまま、従者から視線を逸した。
「今日は西区のワイナリーで新作の試飲会でお客にワインを配る仕事だったんだけど」
「ほうほう」
「酔っぱらいに絡まれて、思わず蹴りを……」
「……お嬢様、またクビになったのですか?」
没落令嬢はアルバイト中【改稿版】 灯倉日鈴 @nenenerin
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