第706話 気付けばまた沼

◇気付けばまた沼◇


「これよ、これ。…二人にはこれを採集してきてもらいたいの。もちろん、現地での植生を含む環境については細かく調べてきてもらえるかしら?」


 俺とタルテは開かれた本を覗き込み、クスシリム準教授の指し示す指の先に目を向けた。この本はクスシリム準教授の纏め上げた植物図鑑なのだろう。見開いたページにはいくつかの植物の絵が記載されており、余白には細かい特性なども記述されている。


 クスシリム準教授の指の先にある文字も植物の名前であるのだが、ほかの植物と異なりその植物は葉の特徴が描かれているだけである。その葉も何処か萎びており、それが乾燥処理の成されたものだと教えてくれる。


「…美しい淑女ベラドンナですか。これをわざわざ俺に頼むってことは…」


「あんな騒ぎを起こせば流石に教授陣には貴方の情報は出回るわよ。…それに、君ってば授業で愛の植物マンドラゴラの悲鳴を聞いても平然としていたじゃない。内緒にしたいのなら耳を抑える程度はしないとだめよぉ」


 美しい淑女ベラドンナの名前を見て、俺はクスシリム準教授に窺うような視線を向ける。美しい淑女ベラドンナは植物自体に毒性が高いこともあるのだが、毒に溢れた特殊な環境にしか生育しない特殊な植物であるのだ。


 だからこそ美しい淑女ベラドンナは希少性が高く、採集するには毒に塗れる必要もあるため狩人ギルドに依頼しても高難易度の依頼として処理される。狩人である俺らならばその採取も可能だからとフィールドワークの対象に指定したのかとも思ったが、タルテだけでなくわざわざ俺にまで声を掛けたのは、俺の毒に対する耐性を知っているからなのだろう。


 マルフェスティ教授の護衛の際に学院内で戦ったことには特にお咎めなどはなかったが、それでも戦闘があったという非常事態に教授陣も間でも情報共有が成されたのだろう。それと同時に俺に関する情報も出回ったのだろうか。


「確かに美しい淑女ベラドンナは…ハルトさんですと格段に楽になりますね…」


「それでも希少植物だぞ?生育可能な環境自体が珍しいのに、都合よく見つけられるかといえば…」


 タルテの言うとおり美しい淑女ベラドンナの採集依頼は俺と相性がいいため、多少の知識を仕入れてはいたのだが、美しい淑女ベラドンナは採集自体が難しいだけでなく、生息地域を見つけることすら難しいのだ。


 毒と言ってもそれは人にとって有害である物質をそう呼称しているに過ぎないため、どんな毒でも美しい淑女ベラドンナが生育できるというわけではない。例えば王都の地下を流れる下水道の中は毒ともいえる汚濁に塗れているだろうが、そんなところには美しい淑女ベラドンナは生えることはない。


 ではどんな毒のある環境ならば生育しているのかというと…残念ながら未だに特定は成されていない。毒のある環境に生えるというのも、確度の高い話ではあるが経験則からくる言い伝えにしか過ぎないのだ。


「生えている場所は大丈夫よ。過去に採集された場所を見つけてあるから、そこに向かって欲しいのよ。最後に見つかったのは随分昔なのだけれども…そもそも人が立ち入ることの少ない場所だから、未だに生えている可能性は十分にあるわ」


 俺とタルテがどうしようかと頭を悩ましていると、クスシリム準教授が美しい淑女ベラドンナの分布地域を提案してくれる。彼女は開いた植物図鑑を捲ると、次のページに書かれた文章を指し示した。それは美しい淑女ベラドンナに関する記述の続きであり、過去にこの国で採集された場所が書き記してあった。


 希少植物とはいえ過去をさかのぼれば幾つもの地点で採集されているのだが、同時に複数の場所で根絶しているとの報告も書き足すように記されている。その中で唯一、現在の生息が未確認である場所があり、クスシリム準教授は俺らにそこに向かって欲しいと言っているのだろう。


「…ウェゾンの蝕み沼ですか」


「どうかしら?…危険な場所とは分かっているから、もちろんフィールドワークだけでなく狩人としての貴方達に依頼も出すわよ?もちろん、無理をして欲しい訳じゃないから難しいなら断ってもらっても構わないわ」


「どんな所なのです…?私は知らないのですけれども…」


 ウェゾンの蝕み沼は美しい淑女ベラドンナが生える場所を考えたときに真っ先に思いついた場所の一つでもある。だが、同時にその場所に行きたくなくてあえてその名を口にはしなかったのだ。厳密に言えば俺はその場所に興味はあるのだが、恐らくは女性陣が嫌がるだろうなと確信に近い予想が俺の中に渦巻いている。


 毒性の強い土壌を含む巨大な湿地帯に強烈な臭気。そこに蠢く大量の毒耐性を持った生物は俺の興味を引いてくれるが、水生の吸血ヒルに小型の毒虫の密度は森林地帯のそれを越える。その環境がどのように生成されたか未だに解明されていないというロマンはあるものの、大半の人間は好んで近づく場所ではない。だが、同時にアニマニア教授がクスシリム準教授の提案に乗ってフィールドワークの許可を出したのも得心が行った。要するに俺にウェゾンの蝕み沼の生態系を調査してきて欲しいのだろう。


「…王都の下水道掃除よりはマシだろうけど似たような感じだ。気持ち悪い上に厄介な魔物が沢山いるぞ」


「うへぇ…。それはちょっと…気合がいりますね…」


「気持ち悪いのは確かにそうだけれども、それよりも危険な場所よ。気持ち悪い程度なら私が直接調べに行くつもりなのだけど、聞けばその道の人間じゃないと浅い所でも精一杯と聞くじゃない。…提案しといてなんだけれども、よく考えてから決断してくれるかしら」


 ウェゾンの蝕み沼について知らないタルテに俺は端的に説明する。俺も伝聞で知った程度ではあるが、その知識だけでもウェゾンの蝕み沼は環境が敵になると簡単に予想できる。


 美しい淑女ベラドンナのページに書かれた生息地の根絶を確認した記述からも分かるとおり、クスシリム準教授は過去に自分でウェゾンの蝕み沼を調べに行こうと試みたことがあるのだろう。だからこそタルテとは違いウェゾンの蝕み沼の危険性を知っているのかクスシリム準教授は不安げな様子で俺らを見つめていた。


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