第697話 名前を綴って

◇名前を綴って◇


「…皆様、おそろいのようですね。少しばかりお邪魔しても宜しいでしょうか…」


 焼き菓子が残り僅かとなってきた頃、マルフェスティ教授の研究室に新たな訪問者が姿を現した。やはり後処理で忙しいのか、部屋の中に足を踏み入れてきたアデレードさんには疲労の色が色濃く出ていた。


 普段はあまり感情を表情に出さない彼女はどこか無機質な印象を受け、ともすればその美貌と相まって人形のように思えてしまうのだが、髪が乱れ目の下の隈が濃くなることで逆に人間味を感じてしまう。だが、そんな彼女がここまで憔悴しているとなると、俺らの想像以上に忙しいのだと内心では恐れを抱いてしまった。


「ああ、わざわざ来てくれたのかい。言われればこちらから出向いたものの…。私達が手を付けている物ですまないが、焼き菓子は如何だろうか」


「いえ、貴方は未だに狙われる危険性がありましたので、私が出向いたほうが合理的でしょう。…ですが、今後はその心配も無くなるかと…」


 マルフェスティ教授も異様に疲労しているアデレードさんに恐れをなしたのか、軽く慌てるようにして彼女に席を勧めた。その声に合わせて俺らもソファの席を詰め、マルフェスティ教授の正面にアデレードさんの座る席を作り出す。


 アデレードさんは促されるままにその席に腰を下ろし、ゆっくりと息を吐き出した。俺らが第三王子諸共行方不明になった後に再会したときも彼女は随分と憔悴していたが、今の疲労具合はそのときに迫るほどだ。


「アデレードさんは頑張りすぎちゃうことが多いみたいですね…。無茶をしすぎると体を壊しちゃいますよ…?」


「…ありがとうございます。タルテさんの魔法は…本当に暖かいですね…」


 マルフェスティ教授だけでなくタルテも疲労するアデレードさんを見ていられなかったのだろう、ソファの上に膝立ちになった彼女は横から抱きつくようにしてアデレードさんに光魔法を施した。活性を司る光魔法による肉体の回復は、どこか高揚感を覚えるものなのだが、それを心地よく感じてしまうということは肉体的な疲労を回復する体力すらも低下している証でもある。


 アデレードさんはタルテを抱き返すようにして素直に魔法を受け入れる。そして体重を背もたれに預けるようにしてゆっくりと息を吐き出した後、再び身体を起こしてマルフェスティ教授に向き直った。目の下の隈は残っているものの、その視線の鋭さは幾ばくか回復したように見えた。


「それで、今後は心配が要らないとの事だが…」


「ええ。尋問の結果、王都に来ていた蛇の左手は三人だけだという証言が取れました。彼らが根城にしていた家にも踏み込んだのですが、その痕跡からしてもまだ隠れている者は居ないかと」


 俺らが未だにマルフェスティ教授の研究室に入り浸っている理由でもあるのだが、事件は事後処理に入っているものの完全に収束したわけではない。既にマルフェスティ教授が狙われることなど無いとは思われるのだが、念には念を入れて護衛を続けていたのだ。


 だが、その心配もどうやら必要がなくなるらしい。仲間を手にかけられた残夜の騎士団と、その残夜の騎士団に首輪を付けることに失敗したアデレードさん達が躍起になって蛇の左手を取り締まろうとしたのだ。そのお陰でここ数日の王都は記録に残るくらいに治安がよくなったことだろう。


「わざわざそれを知らせに来てくれたのかい?忙しいのなら手紙鳥レターバードに手紙を持たせてくれてもよかったのに…」


「チュィ!」


 マルフェスティ教授は調査や取調べの続きだと思っていたのだろ、アデレードさんが伝えてくれた内容よりも、そのことをわざわざ伝えに来てくれたことに驚いている。彼女が手紙鳥レターバードの存在を示すように指を掲げれみれば、部屋の片隅で羽を休めていた手紙鳥レターバードがそこに飛来する。


「実を言いますと…少し息抜きをするつもりでここに赴きました。近衛も騎士も男所帯でどうにも寛げないのですよ」


「あら、意外と抜け目が無いのですわね。初めてサフェーラの姉妹であることを実感しておりますわ」


「これでも家族からはよく似ていると言われるのです。余り自慢にはなりませんが…」


 アデレードさんは少し恥らう素振りを見せなが、マルフェスティ教授の言葉に静かに答えた。もちろん完全に休憩所として利用するつもりは無いのだろうが、報告をするついでに抜け出してきたのだろう。彼女の返答が面白かったから、マルフェスティ教授は軽く喉を鳴らすようにして笑い声を上げた。


「私も護衛として入り浸っていますから、その気持ちは分かります。何故か居心地がいいんですよね」


「ふふふ。いい部屋だろう?インテリアのセンスも中々の物だと自負しているのだ」


 ナナが落ち着く部屋だと研究室のことを褒めれば、マルフェスティ教授が自慢するような声を上げる。その言葉を聞いてアデレードさんは同意するように頷いたが、残念ながら目の前の女性教授はこの部屋を汚部屋にしていた張本人なのだ。


 この部屋を居心地のよい部屋に変えたのはルミエの頑張りに他ならない。マルフェスティ教授の語るインテリアとは部屋の棚に並べられた考古学での研究史料のことであり、それをインテリアと豪語できる自信はどこから沸いて出たのであろうか。


「ですが蛇の左手の脅威がなくなったとなれば、この依頼も終了ですわね。…マルフェスティ教授。この書類にサインを頂けないでしょうか」


「…騎士達が寄越した誓約書は大量にサインを書いたのだが、この書類にサインを書くのはどうしてか躊躇ってしまうな。君らは生徒でもあるのだし、研究室に入ってくれてもよいのだぞ?」


 メルルが差し出したのはマルフェスティ教授の身辺警護のための依頼書だ。ずるずると条件を追加してここまで至ったが、ようやくこれで一区切りがついたということだ。マルフェスティ教授はその依頼書を見て渋るように苦笑いをしてみせる。


 だが、彼女としても依頼の完遂に文句をつけるつもりは無いのだろう。机の上にあった羽ペンに手を伸ばすと、俺らの働きを認めるサインを手早くそこに書き込んだ。


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