第696話 オッソの境遇
◇オッソの境遇◇
「…今回の件も表には語られることはないのだろう?私も口外するなと散々に念押しされたよ。まったく。秘匿することで却って不都合なことも生じるというのに…」
俺らから離れたところで焼き菓子を味わっていたマルフェスティ教授がぼそりとそう呟いた。彼女は遺失した歴史の空白を調査、検証する考古学者であるからこそ、いま目の前で歴史の闇に隠されることとなる事件に陰惨たる思いを抱いてしまうのだろう。
もちろん緘口令が敷かれても、メルルの実家や王府では事件の真実を記録し残すのではあろうが、マルフェスティ教授は人々が知識や経験から遠ざかることで発生する問題点を危惧しているのだろう。知性が人を人足らしめるのであれば、歴史に学び文明を発展されることこそが人という生命体の進化の軌跡なのかもしれない。
「…でも、秘密にするからこそ上手く収まることもありますよ。表向きには全てが無かったことになりましたので…」
俺は不貞腐れているマルフェスティ教授に焼き菓子に添えられていた手紙を摘んで振ってみせる。ホロデナント伯爵の娘さん…セルマータという名前らしいのだが、彼女は俺に対するお礼の言葉だけでなく、簡単な事件の顛末を手紙の中に認めてくれたのだ。
フキはオッソに精神汚染を仕掛け、ホロデナント伯爵を襲わせることで騎士団による残夜の騎士団の排他を狙っていたのだが、その作戦を破綻させたのがホロデナント伯爵なのだ。俺一人が精神汚染のことを訴え、オッソがフキによって誘導されていたと言い張っても何も変わらなかっただろうが、被害者たるホロデナント伯爵が声を上げればその前提条件は大きく異なってくる。
「ホロデナント伯爵がオッソさんを庇ったんだよね?私もまだ詳しくは聞いてないのだけれども…」
「その通りですわ。騎士団もこれを機に残夜の騎士団の影響力を潰そうとしたのですが…まさか襲われた張本人が彼の肩を持つとは思いもしなかったでしょうね…」
セルマータさんの手紙によると、オッソは全ての罪を認め断罪されることを望んだらしいのだが、ホロデナント伯爵はならば働いて贖罪せよと彼を遠まわしながらに許したのだ。そして俺が語った屋敷に火を放ったのがフキであるという話をホロデナント伯爵は支持し、精神汚染によって凶行に至ったオッソの諸行が秘匿されることもあって、残夜の騎士団に対する追求が有耶無耶になってしまったのだ。
そういう意味では、あの火事の夜にホロデナント伯爵を仕留めることができななっかことがフキの最も大きな失敗だったのだろう。もしオッソが彼をその手に掛けていれば、オッソのことを弁明するものなど誰も居らず、結果的には近衛や騎士団が残夜の騎士団を排除することになったであろう。
「この手紙によると…暫くはホロデナント伯爵の騎士として働くらしいぞ。完全に残夜の騎士団を離れるわけではないらしいが、働いて罪を雪ぐらしい」
「旧フーサン地区の一件で心に傷を負ったのはホロデナント伯爵も同じですからね。…本質的にはオッソもホロデナント伯爵も同志であると言えるでしょう」
メルルが俺に渡した報告書を指先で捲りながらそう答えた。傭兵ギルドの纏めた資料よりは詳しく記載されているとはいえ、この報告書であっても旧フーサン地区であった事件の全てが語られれているわけではない。だからこそホロデナント伯爵もあの夜の真実を何処かで求めているのかもしれない。彼はオッソがあの夜の真実にいつかは光を当てることを望んでいるのだろうか。
そして今回の件は旧フーサン地区の事件にて進展があったとも言えるだろう。旧フーサン地区にて発生した大規模な精神汚染は動機も実行者も不明であったのだが、その容疑者として蛇の左手が有力であることを示したのだ。
「それでも何とか残夜の騎士団の勢いを削ごうと調査を続けているようですが、あまり成果は上がっていないそうですわ。…マルフェスティ教授の自宅の件もどうやら蛇の左手が仕込んだことのようですし…」
「三つ巴になるよりはいいんじゃない?それこそホロデナント伯爵みたいに今回の件で互いに歩み寄ることになればいいけど…」
メルルの呆れたような言葉にナナがそう言葉を返した。ホロデナント伯爵を味方に付けられなかった近衛と騎士は、今度はマルフェスティ教授の自宅にあった死体の件でオッソを捕縛しようとしたのだが、残念ながらオッソがあの死体を拵えたという推理は誤りであったらしいのだ。
と言うのも、この研究室に踏み込んできた人形遣いがとうとう情報を吐き出したのだ。その情報がどんなものであったのかは俺らには詳しくは語られてはいないものの、所有者であるマルフェスティ教授には少しばかり詳しく説明があったそうだ。
断片的な情報を繋ぎ合わせると、どうやらあの死体の正体は蛇の左手の人間ではなく残夜の騎士団であったらしい。恐らくフキは俺に仕掛けたときのように、メルガの曲玉を持っていた残夜の騎士団の精神を汚染しその隙に仕留めたのだろう。そして死体となった彼らはオッソを操るために使われたのだ。
「騎士も大変だったのだろうが…ある意味、今回の事件で一番の被害を受けたのは私なのではないか?もちろん、犠牲になってしまった者は除くのだが…」
「お家は事件現場になって…、メルガの曲玉も取り上げられちゃいましたもんね…」
「精神汚染を疑われて丸一日検査に連れまわされ、口外禁止の誓約書を山ほど書かされたことも忘れないでくれたまえよ」
俺らの話を聞いていて、どこか思うところがあったのだろう。マルフェスティ教授は辟易とした様子でそう答えた。死体となってしまった残夜の騎士団は戦いに身を置くものだからその覚悟があっただろう。屋敷を焼かれることとなったホロデナント伯爵も被害者ではあるが、そこには旧フーサン地区から続く確執があった。しかし、マルフェスティ教授はメルガの曲玉を見つけ出したことだけでここまで事件に巻き込まれることとなったのだ。
そう考えれば確かに彼女は悲惨な目に会ったと言えるだろう。その境遇を強引に納得しようとする心情の現われなのか、マルフェスティ教授は焼き菓子に手を伸ばし紅茶で飲み込むようにしてゆっくりと腹に収めた。
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