第692話 熊の擬死

◇熊の擬死◇


「さぁ、その石を渡してもらおうか。わざわざ言葉にしなくとも…渡さなければどうなるかは解っているだろう?」


 喉の奥を鳴らすような笑い声を上げながら、フキは俺にメルガの曲玉を渡すように催促する。いくら懐に入れていた投げナイフで軽減したとはいえ、立っているのもやっとの傷を負わせたはずなのだが、笑みを浮かべるフキに痛みに堪える様子はない。


 恐らく傷口に張った呪符の効果なのだろう。切り裂かれた黒衣の隙間からは赤黒い呪符の文字が明滅しており、何かしらの効果を発揮していることを示唆している。まるで止血帯のようなそれは見たとおり止血と治療の促進、加えて痛みを止める効果もあるのだろうか。


「…その子が無事に開放される保障が無いな。投げると同時に彼女を開放してもらおうか」


「馬鹿なことを言うな。風魔法使いならば空中で石の軌道を変えるなど朝飯前ではないか。私の手に石が収まるまでは渡された内に入らんよ」


 俺はポーチからメルガの曲玉を取り出すも、その前にフキと交渉をする。しかしフキは俺の要求を一蹴し、状況的な有利を示すように分身のフキが投げナイフを少女の首筋に添えてみせる。


「第一、その少女は私が離脱するまでの時間稼ぎでもあるのだ。そうだな…私がこの場を脱してから開放してやろう」


 少女を人質に取っている分身はここに残り、本体が安全圏まで逃げるまで居座るつもりなのだろう。分身だからこそ簡単に使い捨てにすることが出来るのだ。少女が逃走するフキに連れまわされる心配は無くなるが、逆に隙を突く瞬間も少なくなってしまう。


 問題は少女が約束どおり解放されるかどうかということである。流石にメルガの曲玉と少女の命を天秤に掛ければ後者が勝つのだが、このフキが開放の約束を守るとも思えない。この少女を殺したところでフキに明確なメリットは無いだろうが、それこそオッソに擦り付ける罪を増やすためにその手を下す可能性もある。


「だったらお前は見逃してやるから、さっさと尻尾を巻いて逃げるんだな。メルガの曲玉はそっちの分身にその子と交換で渡してやるよ。分身ならば十分に逃げ切れるだろ?」


「おいおい、幾ら私の分身でも風魔法使いと騎士団相手に追いかけっこは分が悪い。そうなればその子を引き連れて逃げることになるだろうな。…これはこの場でこの子を開放してやるという私なりの優しさだ」


 俺が本体のフキに話しかければ、変わりに分身のフキが答える。フキもこの場に騎士団が向かってきていることを把握しているのか、どこか言葉に焦りが滲み出ている。


「面倒だな。…その人質が私の生命線であるが故に簡単には殺さないと思ってるのだろう。別に傷の一つや二つは拵えてもよいのだぞ」


 そして交渉をする時間を惜しんだのか、首筋に添えていた投げナイフを今度は顔に移動する。さっさと渡さなければ顔に消えぬ傷を残すと俺に脅しを掛けているのだ。人質の少女も何をされるのかを理解して、青い顔をして怯えるように添えられたナイフを見つめている。


「やめろ!…これでいいんだろ」


 俺は叫んでそのナイフを止める。そして直ぐにフキに向けてメルガの曲玉を放り投げた。


 放物線を描いて飛んでいくメルガの曲玉はそのままフキの手に収まる。フキはそれを燃える邸宅の火に翳すように掲げ、細部を確認するように観察した。俺の手から離れた影響か、あるいはフキが何かを施したかは不明だが、掲げられたメルガの曲玉は再び怪しげな光を放ち始める。


「…本物で間違いないな。…しかし…では何故精神が…仮に祈祷師の系譜としても…知識が無くては…」


 俺が精神汚染を防いだからこそ、メルガの曲玉が偽物と疑っていたのだろう。フキは投げ渡されたメルガの曲玉を鑑定しながらなにやらブツブツと呟いている。そしてメルガの曲玉が本物であったため、今度は俺に対して疑問が沸いたようだ。


 フキが俺をチラリと見てくるが、俺が巨人族の血を引いていることは気が付かないだろう。誠に遺憾ながら、俺の身長は平地人の平均サイズ…よりもほんの僅かに小さい程度なのだ。身長という巨人族とハーフリングの最も特徴的な外見が打ち消しあっているため、初対面では誰もが俺を平地人と思うはずだ。強いて言えばほんのりと尖った耳や緑系の髪色、童顔がハーフリング由来の特徴だが、その程度の特徴は平地人でも存在する。


「…まぁいい。それではもう会うことの無いように願っているよ。風魔法使い」


 しかしこの場に向かっているであろう騎士団の存在を警戒したのか、余計な詮索は止めてフキは黒衣の中にメルガの曲玉を仕舞いこむ。そしてこの場から去るために踵を返したのだが、一歩踏み出したところで足を止め、こちらを振り返って意味深な笑みを浮かべたのだ。


 その笑みに応えるかのように、分身のフキが人質の少女の猿轡を解く。開放されるのかと少女は期待して分身のフキの表情を窺うが、その少女を見つめるフキの表情は酷く邪悪なものだ。まだ悪夢は終わらないのだと再び少女は顔を青くする。


「…ヒィ…ッ」


「…何のつもりだ」


 猿轡を外されたというのに、あまりのフキの形相に少女は喉の奥から掠れた声を上げるので精一杯だ。俺はフキの意図を探るために奴に向かって静かに声を投げかける。


「いや、なに。外にも包囲網が敷かれてるだろうからな。奴らをここに集めるために…少しばかり良い声で鳴いてもらおう」


「や、やめ…て…」


 分身は恐怖を煽るように少女の目の前でナイフを翳してみせる。人質の少女を痛めつけ、その悲鳴で騎士団をこの場に引き付けたいのだろうが、嗜虐的な笑みに満ちたその顔は単に人を傷付けたいから傷付けるのではないかと思えてしまう。


「おっと、動くのは禁止だ。か弱い分身の私は…簡単に怖くて手が滑ってしまうからな…」


 どうせ傷付けられるのならば、彼女が多少の怪我を負うことを覚悟で強引に助け出すかと俺は身構えるが、その足を止めるようにフキの声が届く。まだ本体が近くにいる状態で生命線の彼女を殺すとも思えないが、それでも僅かな可能性が俺の足を地に縫い付ける。


 だが俺の代わりに動くものがあった。一つは舞い戻った一匹の鳥。その手紙鳥レターバードは獲物を仕留めるかのように加速し、分身の握る投げナイフをその手の内から弾き飛ばす。そしてもう一つは気絶していたが故にこの場の人間から忘れ去られていた存在だ。今この瞬間に目が覚めたのか、あるいは既に目が覚めていたのか、山のような巨躯が本物のフキの背後でゆっくりと立ち上がったのだ。


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