第691話 人の心を侵す石

◇人の心を侵す石◇


「間抜けにその石を身に着けていてくれて手間が省けたよ。それこそが人心惑わす煽動の妙石とは気が付かなかったようだな」


 メルガの曲玉が光りだしたのを見て、フキは思い通りに事が運んだとほくそ笑んだ。俺はメルガの曲玉が爆裂でもするのかと冷や汗をかいたが、ポーチの中から光が漏れ出したのは一瞬のことであり、直ぐに光は収まってしまう。


 いくらなんでもメルガの曲玉を光らせるだけの大道芸ではないだろう。フキの様子を見る限り何かしらの呪術が行使されたのは間違いなく、しかし感じ取れる範囲では何も変化がないため俺は内心で混乱した。


「意識はどこまで残っている?表出する無意識を必死に押し留めているか…あるいは五感と完全に乖離したか。この言葉が届いているかも不明ではあるが、それが精神汚染というものよ」


 だが、フキの言葉で直ぐに俺の混乱は収まった。俺は既にメルガの曲玉が精神汚染の触媒だとは気が付いていたが、そんな触媒を無警戒で手にしていたため、フキは俺がメルガの曲玉が触媒だと気が付いていないと踏んだのだろう。


 つまりフキはあの呪符でメルガの曲玉を触媒にして精神汚染を仕掛けたのだ。しかし、残念ながらその呪いは俺の呪耐性を上回ることはなかったようだ。少なくとも俺は数分前の俺とは何も変わっていないと自己判断することが出来る。…それとも精神が汚染されると自分で自分がおかしくなっていることには気が付けないのだろうか。


「その妙石を差し出すがよい。広くはメルガの曲玉と呼ばれるその石だ」


 そう言いながらフキは警戒することなく俺に近づき、既に一足一刀の間合いに立っているにもかかわらず、奴は右手を差し出してきた。その様子を見て俺は確信する。フキが俺に仕掛けてきた精神汚染はブードゥー教の生ける死体ゾンビのように自発的意思のない人間を作り出すものなのだろう。でなければ、いくらなんでもそんな言葉を口にする理由も、こんな隙を見せる行動をするわけもない。


 フキが何をしたかが解らず無言でけんに徹していたことが功を奏したのだ。フキは俺が何も言葉を返さないからこそ呪術に掛かっていると判断して無遠慮に距離をつめてきたのだろう。それはある意味ではフキの呪術に対する自信の表れであり、同時に慢心でもある。


「…?言葉の意味を理解できぬほどの状態なのか?」


 フキは俺が言葉に従わないため眉を潜めながらそう呟いた。そしてまた無遠慮に俺に向けて足を踏み出してくる。そこが死地だとは微塵も疑う様子がない。


「おしゃべりの時間は終わったって言ったんだがな…」


「…ッ!?何だと!?」


 俺は右手をわざとメルガの曲玉に伸ばし、奴の視線がそちらに逸れたと同時に急加速する。フキは予想していなかった俺の攻撃に即座に飛びのくが、俺の剣が奴を捉えるほうが圧倒的に早い。


「ぐぅ…っ…」


 下段から上方、逆袈裟にフキの身体を切り上げる。鋭い剣先は奴の黒衣を切り裂き、腹から胸にかけて血を吐き出させた。


「…投げナイフのせいで少し浅かったか?」


「何故…ッ!?何故意識を保っている!?」


 俺は剣に残った血と振り払いながら腹を抑えて蹲るフキを見据える。斬り付けたフキの黒衣の下からは結構な量の血が滴り落ちているが、零れているのは血液だけではない。俺の斬撃によって切断された投げナイフの破片がボロボロとフキの足元に零れ落ちたのだ。


 俺は一思いに奴を絶命させるつもりで剣を振るったのだが、黒衣の内側に仕舞われた大量の投げナイフが鎧の代わりになり俺の剣を押し留めたらしい。それでも完全に防ぐことは不可能であり、流れ出る血の量が傷の深さを物語っていた。


「どうやらこの石とは相性がいいみたいだな。光っただけで特に何にも感じなかったぞ」


 フキは信じられないという顔で俺のことを見上げている。単純に俺の呪耐性が高いことが原因なのだろうが、そこまで丁寧に教える必要もないだろう。フキは俺の言葉に舌打ちで答えると、ふら付きながらも俺から更に距離をとった。


 俺は直ぐにフキを追って距離をつめようとするが、その足を前に踏み出す前に風の感知結界に侵入者が現れたのを感じ取る。その侵入者とはフキと同じ背格好をしており、見るまでもなくフキが事前に用意していた呪符による分身だと理解することができた。


「そこまでにしてもらおう。そちらを向いていても、貴様ならどんな状況下は把握しているだろう?」


「…本当は騎士団の足止めのために用意したんだがな…。ここで切らされることになるとは…」


 後ろと前、両方からフキの言葉が発せられる。血を滴らせている目の前のフキが本物なのだろうが、それでも背後から感じるフキもまるで本物のように言葉を口にする。俺は何かされる前にさっさと目の前のフキを始末してしまおうかと考えたのだが、フキの分身が抱え込んでいる人物の存在がそれを俺に躊躇わせた。


 俺はゆっくりと後ろを振り返る。背後にいたのはフキと、後ろ手に縛られ口に布を噛まされたホロデナント伯爵の娘の少女である。分身のフキの手は血に濡れており、少女もまた服の裾が血で濡れている。見たところ少女が怪我をしている訳ではないが、それが却ってどのようなことが発生したのかを俺に教えてくれた。


「随分用意のよろしいことで…。避難していた所を攫ってきたのか…?」


「こちらとしても貴族街の侵入は面倒なのでな。貴様のせいで予定が狂ってしまったよ」


 俺の顔を見て少女は縋るように猿轡の下で呻き声を上げた。彼女の目からは大量の涙が零れ、恐怖のせいか肩や足は見て解るほど震えている。そんな彼女の存在を示すかのように分身のフキは縛られた彼女の腕を掴み揺すってみせた。


 痛みが走ったのか再度、少女が悲鳴のような呻き声を漏らす。その声を聞いて分身のフキは得意気な笑みを浮かべ、また本物のフキも軽く笑いながら治療のためか呪符を取り出してそれを自身の傷口に貼り始める。そして催促をするように、俺に向かって血に濡れた右手を差し出してみせた。


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