第689話 黒い衣を照らして
◇黒い衣を照らして◇
「この程度で…!止まるものかぁあ!!」
膨大な熱量を撒き散らす炎もそれは爆裂に似て一瞬で収まってしまう。だからこそその炎はオッソを焼き殺すまでは至ることはなく、オッソは叫びながら残った炎を振り払うように大きく腕を振り払った。吼えるような叫び声は周囲の炎すらも振るわせるほどの大音声であり、精神汚染をされているくせに瞳には意志の強さを感じ取ることができた。
だがそれでも炎がオッソの残した爪痕は大きい。頭髪は黒く焦げ腕や頬は火傷で赤く爛れており、致命傷とはいえないまでもオッソは意思の強さだけでなんとか立っている状態だ。そしてなによりメルガの曲玉を縛り付けていた紐が焼け焦げて千切れかかっているのだ。俺は周囲に展開していた風を圧縮させ、それをオッソに向けて放った。
「獣人族は不可視の風でも避けるが…、流石にその状態じゃ避けきれないだろ?」
感覚と瞬発力に優れる獣人族はフィジカルで魔法に対抗してくる存在だが、俺に注視するあまり懐に迫る風魔法には気が付かなかったようだ。開放された圧縮空気にオッソは思わず多々良を踏み、その風が縄を引きちぎってメルガの曲玉をオッソから取り上げた。
放物線を描いて飛んでいくメルガの曲玉は、石造りの廊下に落ちると音を立てて転がってゆく。電池が外れたと表現すればよいのだろうか、メルガの曲玉と物理的に離されたオッソはガクンと力が抜けたように一瞬身体を揺らし、意志の強さを示していた瞳は焦点が合わずに宙を泳ぎ始めた。
「あぁ…ぉぉおぉぉ…ぉぉぉ…」
「いいから休めよ。もうよい子はとっくに眠る時間だ」
メルガの曲玉と引き離したことで正気に戻ることを期待したが、オッソは不自然に身を揺らしながら呻き声を上げるばかりで正気に戻る様子はない。俺は即座にオッソとの距離を詰め、身体を回転させて後ろ回し蹴りを鳩尾に叩き込んだ。
軸足が踏みしめた床が音を立ててひび割れる。加速し体重を乗せた回し蹴りは巨体のオッソを浮かび上がらせて、そのまま邸宅の外に向けて吹き飛ばした。完全に受身であったオッソは自身の空けた穴を通って庭に着地し、土に塗れながらも邸宅の外の庭を転がってゆく。それこそ歪な形状であるメルガの曲玉よりも綺麗に転がり、十分とは言えないまでも燃える邸宅からオッソを引き離すこととなった。
「…念のために縛っておいたほうがいいか?つっても熊の獣人族を縛れる縄なんてな…」
俺は起き上がる様子のないオッソを見つめながらそう呟いた。どうやら気絶してくれたようだが、目が覚めれば再び暴れる可能性がある。しかし力の強いオッソの場合、生半可な縄では簡単に引き千切ってしまうことだろう。できれば金属製の拘束具が欲しいところだが、生憎とそんな物は持ち合わせていない。
それでも燃える邸宅で家捜しする暇はない。俺はさっさとメルガの曲玉を回収して邸宅を脱出しようと、火の側に転がっているメルガの曲玉の元に向かった。赤色に満ちた空間ではあっても、自ら光を放つメルガの曲玉は青緑色に輝いており、その色が混ざり揺らめくことで複雑な色味を作り出している。
俺は一歩手前で足を止めてメルガの曲玉を観察する。余りに怪しい光景にホロデナント伯爵が言っていた通りにここで破壊してしまおうかと考えたが、マルフェスティ教授に雇われている俺がそれをすることも気が引ける。ここで悩んでいても仕方がないため、俺は意を決してメルガの曲玉を手に取った。
「…特に何も感じないな。やっぱり精神汚染は呪詛の類か…」
怪しい光を放っていたメルガの曲玉だが、俺が手に取った途端にその光量が低下し始める。不可思議な文様は綺麗だとは思うし光る様子は不気味に思えたが、特に感情を刺激されるようには思えない。呪詛に耐性のある俺でも何かを感じ取るかとは思ったのだが、どうやら呪詛自体はそこまで強くはないらしい。
俺はそのままメルガの曲玉を片手に燃える邸宅を後にする。外に出れば新鮮な空気が俺を包み込み、その涼しさを味わうように俺は肩を揺らして深呼吸をした。オッソの襲撃が知れ渡ったせいか周囲には消火作業に従事していた使用人の姿はない。
俺はオッソに歩み寄りながらも、ホロデナント伯爵の行方を探ろうと風を広範囲に展開させる。時間的には騎士と合流していても可笑しくないのだが、他の残夜の騎士団の団員が潜んでいる可能性もあるのだ。しかし俺の風はホロデナント伯爵の姿を確認する前に、別の人間の存在を捉えることとなった。
「これだから風魔法使い相手はやり辛いな…」
「…お前が来ているとはな。どこに隠れていた?」
庭の暗がりから姿を現したのは黒衣の男、フキだ。恐らくは俺に不意打ちをするつもりだったのだろうが、十分に接近する前に俺の風に補足されることとなったのだ。それでも俺に見つかることは想定の内だったようで、奴の口元は厭らしく笑っていた。火に照らし出されているが、黒い服は周囲の闇に溶け、その厭らしい笑みだけが暗がりの中に不気味に浮かび上がっている。
完全な無関係では無いとは思っていたが、オッソの言うようにホロデナント伯爵は蛇の左手と繋がりがあったのだろうか。それでもわざわざ俺の前に姿を現したのは奴の目的は未だにメルガの曲玉にあるのだろう。
「隠れるも何も、そこの男が事を成すのを待っていたのだよ。…残念ながらお前に阻止されてしまったようだがな。復讐も満足に遂げられないとは…」
「…自分だって色々としくじってばかりだろ?何人お前を殺したと思ってんだ」
どうやらフキはオッソに用が合ったらしい。それが出待ちなのか待ち合わせなのかは不明だが、オッソは未だに気絶しているため真偽を確かめることはできない。俺は挑発し返すような言葉を投げかけるが、オッソは笑うばかりで気にする素振りは無い。
まるで精神汚染に掛かっていたオッソが気絶したことで、憑依していた呪詛がフキとなって顕現したような状況だ。だがしかし展開した風は目の前にいる男が呼吸をしている紛れもない人間であることを教えてくれており、フキもまた自身の存在を示すかのようにゆっくりとフードを捲る。燃える火の明かりがその顔を照らし出し、その双眸が俺の目を確りと捉えていた。
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