第672話 一夜の凶事
◇一夜の凶事◇
「西の端で平穏を維持していたのは…それこそネルカトル領くらいですわね。あそこは昔から今もナナのお家がしっかりと統治していましたもの」
メルルがナナに視線を投げかけながらそう言った。それは褒める言葉であると同時に、お前も西部の貴族なのだから知っていないとまずい情報だぞと不勉強を指摘する言葉でもある。その裏の意味に気が付いたのか、ナナは恥じ入るように肩身を狭くした。
だがそれも仕方ないのではと俺は思えてしまう。ネルカトル領はこの国の北西の端にあり、更にその端の向こうは未開拓の深山幽谷と人類未到達の魔境が広がっている。南側も街道はあるものの山間部に隔てられており、言ってしまえば陸の孤島に近しい立地なのだ。もともとこの国に途中から併合され今なお自治区のように扱われているネルカトル領では、同じ西部といっても西部中央とは物理的にも心理的にも距離が離れているのだ。
「まったくかの騒動のお陰で歴史的、文化的な遺物が数多く行方不明になったのだよ。あのあたりはカーデイル前中期の歴史やそれこそ成立以前の文化を色濃く残していたのだが…、今では口伝すらも途絶えつつある有様さ」
マルフェスティ教授は紅茶を口に運びながら嘆くようにそう言葉を漏らした。カーデイルの崩壊に伴い国土や国民をこの国が受け入れることとは成ったが、全てが円満に進んだわけではない。その流れには破壊も伴ったのだろう。
「そういえば、前に国境近くに依頼で行ったときも…かなり街の治安は悪かったよね。最終的にはハルトが建物ごと爆破させたけど…」
「今でも裏社会は西側のほうが活気に溢れていますわ。願わくば余り近づきたくない場所ではありますわね」
狩人ギルドでも西部に向かう依頼の場合は治安の悪さを忠告される。中央部や東部が安心安全な街しかないという訳ではないが、それでも比較すれば事件の発生件数などで大きな差があるのだろう。
「オッソさんは…そんな地方の出身なんですね…。なにか…酷いことがあったのでしょうか…」
「…それも纏められてるな。あまり聞いて気持ちのいい情報じゃないが…」
やはり傭兵ギルドは残夜の騎士団を危険視しているのだろうか、あるいはその事件を解決する手助けをするつもりがあるのか、オッソが巻き込まれたであろう事件についても事細かく纏められている。そこに書かれていたのはフーサン地区と呼ばれる地区が地図から消え失せた理由でもあった。
「大規模な盗賊団の根城となっていて、地域住民を巻き込んでの騒乱があったのか。…これは、貴族も噛んでいるのか?」
「少し待ちたまえ。確か古い区分を纏めた地図があったはずだ。測量を元に描かれたものではないため地形などは適当だがな」
俺が資料に目を通していると、マルフェスティ教授は腰を持ち上げて書架に歩み寄る。そしてその中から一枚の古びた羊皮紙を取り出すと、俺らの目の前に広げてみせた。恐らくは彼女か、彼女と同じ考古学者が記した地図なのだろう、古い地名や遺跡の場所などが記されており、まるで考古学者にとっての宝の地図のような代物だ。
マルフェスティ教授は悩む様子もなく、即座に広げた地図の一箇所を俺らに指し示してみせた。そこには旧フーサン地区と記されており、手元の資料に間違いがないのであればそこがオッソの出身地であるということだ。
「この位置ですと…今はホロデナント伯爵領でしょうか。ですがこの地図によりますと…当時はオルト男爵が統治していたようですわね」
「その辺はこっちの資料に纏められてるぞ。オルト男爵領が統治していたフーサン地区が盗賊の温床になっていて、被害にあっていたホロデナント伯爵が兵を挙げたらしい。領地侵犯になるがオルト男爵の統治能力不足が認められた形になったみたいだな」
事件があったのは俺らが生まれる前の話だ。恐らくはオッソまだ幼い頃の話であったのだろう。そして同時にオッソは義憤に駆られて残夜の騎士団に加入したのではなく、自身にも復讐する相手がいるからこそ残夜の騎士団に肩を並べることになったのだろうと推測することが出来た。
「…貴族同士の争いがあったのならば、私の実家のほうでも調べている可能性がありますわね。少し調べてみましょうか」
「確かに…これを読む限りでは別の情報源が欲しくなるな。後から調査したせいか…妙に憶測が多い」
どうするべきかと少しばかり悩んだが、俺はメルルの提案に頷いた。傭兵ギルドの資料は細かく調べられてはいるものの、何があったのか全てを明るみにしているわけではない。というのも、まるで陰謀論のようではあるのだが、オルト男爵が盗賊と繋がっていた可能性や、ホロデナント伯爵が領地を得るために盗賊団の討伐をでっち上げた可能性が示唆されているのだ。
だが、それでも起きた事を記した情報は正しいのだろう。ホロデナント伯爵が率いた兵は夜の内にフーサン地区を包囲し、そこで住民の大半を虐殺したらしい。公的には盗賊しか討伐していないことにはなっているが、そもそも盗賊とただの住民を見分けることが困難であるのだ。確実に無実の者を巻き込んでいることは間違いないはずだ。
「死者複数…。街を維持できなくなって、残った人も散り散りになったみたいだね。その中にオッソさんも居たのかな…」
「オルト男爵家は…恐らくは断絶しているはずですわ。生憎と理由までは覚えておりませんが、現役の貴族でその名前は聞いた覚えはありませんもの」
「もしかして…この事件で一緒に滅んでしまったのでしょうか…」
貴族関係に詳しいメルルも、流石に既に滅んだ男爵家の滅亡の理由までは把握していないらしい。特に当時は非常に荒れていた西部での話であるため、そのような事件は限りがないのだろう。マルフェスティ教授が広げた地図、その地図に記されている旧の文字の数だけ、そのような事件があったのだろうか。
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