第670話 居心地の良し悪し
◇居心地の良し悪し◇
「はぁぁああ…。結局私のメルガの曲玉は行方不明なのか。まぁ、こうなってしまえばもう取り返したいとは思わないが、奪われたままという事実がまんまとしてやられたようで癪に障るなぁ」
夕暮れが迫った来た研究室の中で、俺らからの報告を聞いたマルフェスティ教授はそう言葉をこぼしながら机の上に身を乗り出して脱力している。一度手元を離れたことでメルガの曲玉に対する執着心は失ったようだが、単純に奪われたことが悔しいのだろう。
だがなにより彼女を疲れさせているのは、傍らに立っている騎士の存在だろう。まだ若く見える二人の青年は無愛想な表情で扉を挟むようにして直立しているのだ。彼らは近衛が回してくれたマルフェスティ教授を護衛するための騎士なのだが、近衛ではなく第二騎士団に所属する騎士なのだとか。
「なぁ、せめて椅子に座ったらどうなんだい?そう突っ立っていられたらこちらが落ち着かないよ」
「いえ。座ってしまえば緊急時に即座に対応できません。長時間の直立は訓練していますのでお気になさらず」
マルフェスティ教授が彼らに声を掛けるが、彼らは表情を変えることなく淡々と沿う答えた。言葉だけを聞けば任務に忠実で真面目な騎士なのだが、彼ら二人からは少しばかり不機嫌な気配も漂ってくる。
彼らを紹介する際にアデレードさんがこっそりと俺らに詫びてきたのだが、どうやら蛇の左手と残夜の騎士団を捉えるための操作網は、時間を優先するために近衛だけではなく騎士団も駆り出される事になったらしい。そして彼ら二人はその捜査から外された人員であり、彼らからしてみれば面白くない仕事を回されたと思っているのだろう。
実を言うと彼らがマルフェスティ教授の護衛に回されたのには理由もある。彼らは今回の件には関与していないと証明されているものの、残夜の騎士団の協力者なのである。そのため残夜の騎士団と争う可能性のないマルフェスティ教授の護衛に回されたのだが、実力以外の名目で任務を外されたことが余計に気に食わないのだろう。
「お気になさらずと言われてもねぇ…。最近はこの研究室も賑やかになってきたから、人の気配には慣れたのだが…、この剣呑な気配は初体験だよ」
「マルフェスティ教授。騎士の方々は警戒心を維持する必要がありますから仕方がありませんわ。あまり彼らに引き摺られては気が休まりませんわよ?」
既に護衛として俺らに四六時中付き纏われる経験はしているものの、若いとはいえ屈強な騎士に護衛されるのは醸し出される緊張感が違う。彼らの緊張感が伝播し気を休めることが出来ないでいるマルフェスティ教授を心配し、メルルが紅茶を差し出した。
マルフェスティ教授はメルルに礼を言うとその紅茶をゆっくりと口に含む。そして居心地の悪さを体外に排出するかのように、ゆっくりと溜息を吐き出した。建物の外からは茜色に染まりつつある日の光と共に学生が騒ぐような声が遠巻きに聞こえ、騎士がいることを除けばどこか寂しげで感傷的なムードが去来してくる。研究室の中ではカルディから貰った資料を捲る静かな紙の音だけが響いた。
「…マルフェスティ様。護衛対象が増えることと成りますので、学生の方々は帰らせて頂きたいのですが…」
だがそんな静寂を寡黙であった騎士の声が破る。彼は資料に目を通す俺らを煩わしそうに見つめ、言外に仕事の邪魔をするなと釘を刺してきた。
「おいおい。最初に言った説明を忘れたのかい?この子らも私の護衛のために雇っているんだ。それとも君らは女性の部屋にまで踏み込んで守るつもりなのかな?」
「え…ええと…?マルフェスティ教授も女性ですから…殿方には見られたく無い姿もあるかと…」
その言葉に真っ先に腹を立てたのはマルフェスティ教授だ。彼は近場にいたタルテの肩を手で掴み、抱きこむようにしながら騎士の一人にそう言い放った。二人の騎士の視線を集めることとなったタルテはしどろもどろになりながらも騎士にむかって言葉を紡いだ。
もとより俺らに釘を刺すためだけの言葉であったため、騎士は特に反論することもなく鼻から息を吐き出してタルテから視線を逸らした。その態度にまだマルフェスティ教授はご立腹のようであったが、タルテがなんとか彼女を宥めたことで軽く浮かした腰を再び椅子に落ち着けた。
「…そういえば、タルテ。保存食を買い足したらおまけしてもらったんだ。これ好きだろ?」
「え…!?いいんですか…!?いただきます…!」
俺はそんなやり取りを尻目にタルテの好物を投げ渡した。猫に保存食用の竜肉を奪われてしまったために別の保存食を買い足しに行ったのだが、そのときに胡桃をおまけして貰っていたのだ。保存食としても優れる胡桃はその保存性を示すかのように硬い殻で覆われている。彼女は嬉しそうに胡桃をキャッチすると、テーブルの上にハンカチを広げた。
ゴキャリと生々しい音が研究室の中に響くと、パラパラと彼女の敷いたハンカチの上に砕かれた胡桃の殻が零れ落ちる。獣はおろか魔物の咬合力にすら耐えるために進化した胡桃の殻は袋に詰めて振るえば鈍器として利用できるほどだ。だからこそ、騎士達は目の前の光景が信じられずに目を見開いていた。まさか、まだ幼さを残す少女が素手で胡桃を破砕するとは思わなかったのだろう。
「えへへ…。あっ…ナナさんも食べますか…!?ナナさんも好きでしたよね…!?」
「そ、そうだね。私も少し貰おうかな…」
「胡桃か。久しく食べていないな…私も相伴に預からせてもらおうか。どうせまだ持っているのだろう?」
俺が騎士を脅すために胡桃をタルテに渡したのだと理解したのだろう、ナナは苦笑いしながらもタルテに手の平を差し出した。そしてマルフェスティ教授も強請るように俺に手を伸ばし、追加の胡桃を要求した。
紙を捲る音だけが響いていた研究室はゴキャリゴキャリと胡桃を砕く音が響き渡るようになる。その異様な光景に、扉の前に佇んでいた騎士は居心地が悪いのか咳き込むように喉を鳴らした。
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