第663話 便りが無いのは無事の証

◇便りが無いのは無事の証◇


「あ、おはよう。ちょっとうるさくしちゃったけど、ちゃんと眠れたかな?」


 ソファーをベッド代わりにしていた俺は、腹の上に妙な重さを感じてまどろみの中から意識を浮上させた。知らず知らずの内にうなされる声が漏れていたのか、研究室の中に待機していたナナが俺の目覚めに気が付いて声を掛けてきた。


 部屋の明るさから言って時刻は昼過ぎだろう。夜番をしていた俺は朝方に皆が目覚めてから交代で眠りに付いたのだが、戦闘の疲れがあったのだろう、思いのほか長時間眠っていたらしい。猫のお墨付きがあったとはいえ多少は不安であったのだが、どうやら俺が眠りに入ってからも襲撃の続きはなかったようだ。


「重いと思ったら…お前が寝てたのかよ。何でわざわざ俺の腹の上で寝てるんだ…」


「んなぁう」


「ふふふ。ハルトが寝にくいかと思って何回か退かしたのだけれども、直ぐに上に戻っちゃうんだよ。随分と仲良くなったみたいだね」


 腹の上に感じた重みはネズミ捕獲長であった。わざわざ人の上に乗って暖を取る必要があるほどの気温でもないのに、なぜ俺の上で寝ているのだろうか。俺の責める視線を受けても、ネズミ捕獲長はどこ吹く風で欠伸を拵えた。


 ナナが俺のためにお昼の残りらしきサンドイッチを出してくれる。その臭いに誘われるようにして俺が勢い良く上半身を起こせば、腹の上に載っていたネズミ捕獲長がずり落ちて文句を言うように不機嫌な鳴き声を上げた。復讐のつもりかサンドイッチ目掛けてネズミ捕獲長が飛び掛り、俺がそれはさせるかと空中のネズミ捕獲長をキャッチする。


「人の飯を取るんじゃない。…どうせ妖精猫アルヴィナから竜の肉を都合してもらえるんだろ?」


「なぁぁぁん…」


 俺が低い声でそう問いかければ、気まずそうな顔でネズミ捕獲長が顔を逸らす。昨夜のタルテの惨状を目の当たりにしているせいか、竜の肉が貰えるとしてもそれが却って恐ろしいのだろう。優しきタルテが竜の肉の恨みをネズミ捕獲長に向けることなどないだろうが、それでも圧倒的強者の恨みが向く可能性が僅かにでもあるだけで気が気ではないのだ。


「あ…!ハルトさんおはようございます…!お目覚めになられたんですね…!」


「ハルト様、屋根の上の泥の件で教務員の方々が随分と文句を言っていましたわよ。例の呪符の進入経路を探すことに躍起になっているようですが、自分達の不手際をよそに飛び火しそうな勢いでしたわ」


「まぁ、その辺はじきに収まるだろう。情報が錯綜しいていて誰しもが混乱しているようだからね。確かにあの泥だらけの校舎を見たら、真っ先に誰の仕業かと問いたくなるのも分らなくはないが…」


 そして都合よくタルテとメルル、そしてマルフェスティ教授が研究室に入ってくる。俺の腹の上でまどろんでいたせいで足音を聞き逃したのか、ネズミ捕獲長は話題のタルテの登場にビクリと身を震わせた。


 俺が寝ている間に、彼女達は昨夜の事件の後処理に借り出されていたはずだ。こちら側に死者や負傷者は出てはいないものの、学院に犯罪組織の人間が入り込んだことは結構な大事であるため簡単には済まなかった筈だ。どことなく、マルフェスティ教授の顔がやつれているようにも思えた。


「ああ、悪い。…その…泥の中に死体はあったか?」


「…あるのは壊れた鎧と槌だけでしたわ。その辺は学院の方々が処理していましたが…、ハルト様の証言をもとに鎮魂の儀も執り行われておりました」


 やはりハカは泥になってしまったらしい。あるいは魂は空に還ったのかもしれないが、それでも彼の躯は地に還る事となったのだ。そして現場検証が行われたのは俺とハカが戦った戦場だけではない。俺が眠りに付く前までは片隅に転がっていた竜牙兵スパルトイの残骸も消え去っており、代わりに複数の人間の足跡が床に残されている。


 ナナがうるさくしてしまったと言っていたが、どうやら俺が寝ている間に研究室の中の現場検証が行われたのだろう。普段なら見知らぬ人間の気配がすれば飛び起きてしまうのだが、どうやら眠る前に飲んだタルテの薬湯が効いたらしい。毒の類を寄せ付けない俺にでも何とか効くように特別に調合してもらった薬湯で、その効能に今更ながら驚いてしまう。


「危うく私も学院から放逐されて自宅謹慎になるところだったのだが、なんとか研究室に篭る許可ももらえたよ。流石に今私を学院の外に出したら、次の日には川の水面に浮かんでいる可能性が高いと理解してくれたようだ」


「学院としてはいい迷惑でしょうね。…ですが、意外とマルフェスティ教授を買っている方も多いようですわ。その歳で教授になったのも伊達ではないということですわね」


 襲撃の標的がマルフェスティ教授であるのならば、学院としてもその火種を内に抱えたくは無いだろう。今までは念のためという形で俺らが護衛していたのだが、実際に襲撃があったとなれば再度の襲撃の可能性を考えないわけにはいかない。だが、教育機関だけでなく研究機関としての側面をもつオルドダナ学院は生徒以上に教員の保護に手厚い。今回は火種を抱えてでもマルフェスティ教授を守る方向に動いたようだ。


 一段落着いたことで肩の荷が下りたのだろう、マルフェスティ教授は疲れた顔で俺の横に腰を下ろした。しかし、一段落と言っても全ての問題が解決したわけではない。マルフェスティ教授は悩ましい表情で言葉を続けた。


「…家に帰らずに済むのは良いことなのだが問題もあってね。何があったのかは知らないが、私の家に駐在している残夜の騎士団と連絡が取れないのだ」


「手紙が帰ってこないだけで、向こうでも事件があった訳じゃないみたいなんだけれどね。様子を見に行こうにも…まずはハルトが起きるのを待とうかなって…」


 不安そうな顔を浮かべるマルフェスティ教授の言葉にナナが続く。どうやら朝一番で残夜の騎士団に手紙を出したらしいのだが、その返答が未だに来ていないらしい。もちろん、俺らがそうであったように向こうにも敵の襲撃があったことを疑ったが、学院の事件を調べに来た騎士に聞いてもそんな事件は報告されていないらしい。


 もともと残夜の騎士団がマルフェスティ教授の自宅に張っていることを周囲に悟られないために手紙という連絡手段を取っていたのだ。だからこそ、手紙の返信がないからといって足を運ぶのを嫌ったのだろう。それにまだ手紙を出してから半日しかたっていない、返信がないことを怪しむにしても微妙な時間でもある。


「向こうも忙しくて手紙を返す暇が無い…だけなら良いのですが、この時間まで返答がないと流石に不安になりますわね」


 だが、危機感の高いメルルは既に嫌な想像を張り巡らせているようだ。もし仮に残夜の騎士団が暗殺によって壊滅していたのであれば、手紙が返ってこないことも事件が明るみになっていないことにも説明が付いてしまうのだ。


 名高い残夜の騎士団がこんな簡単に壊滅しているとは思えないが、向こうも無事であると言い切ることもできない。マルフェスティ教授は既にメルガの曲玉にそこまで執着していないようだが、それでも残夜の騎士団の無事が気になり、何とも言えぬ渋い表情を浮かべていた。


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