第656話 大地を泳ぐもの

◇大地を泳ぐもの◇


「人助けなんかさせるかよ!吹き飛べやッ!」


 咄嗟に放った圧縮空気球は十分な風量を込めることが出来てはいなかったが、それでも泥の上にいたフキをよろめかすには十分である。いきなり強風を浴びたフキは倒れないように多々良を踏み、足を止めたことで俺に追いつかれることとなった。


 ハカを助けるための行動は、俺に近づいてもらい自爆に巻き込むための陽動かとも思えたが、高速で接近されてはフキもタイミングよく自爆することは出来ないだろう。俺は泥沼の上を一足飛びで飛び越し、その勢いのままフキに飛び蹴りを食らわせた。


「…ハハハ。風魔法使いにしても速過ぎるだろう。…そもそも好んで距離を詰めてくる風魔法使いのほうが珍しいか…」


「戦い方を見れば…お前のほうが風魔法使いっぽいよな。投げナイフや呪符を風で操られたら…考えただけでも面倒そうだ」


 フキはそのまま泥の上を滑るように転がってゆく。黒衣が水を吸って重たいのか、フキは立ち上がることは無く億劫そうな動作で顔だけを俺に向けてそう呟いた。風魔法使いは斥候能力に秀でているため、わざわざ危険を冒してまで接近することは珍しく、相性の良い弓矢などで一方的に攻撃することが多い。俺の特異的な戦い方にフキは乾いた笑い声を上げた。


 変わらず戦う素振りのないフキではあるが、奴は豊富な手札を持っているため、俺は僅かな挙動すら見落とすまいと目を細めた。しかし、警戒する俺の様子を見てフキは更に笑い声を強めた。そして、仰向けに転がりながら身に纏っていた黒衣を肌蹴てみせた。


「お前も私を蹴り飛ばした感触で分っただろう?私の術は人形に仮初の命を与えるのとは事情が違う。…言うなれば…私自身を別の箇所に投影していると表現したほうがいいだろうな」


「魔法で人形を動かすのではなく…お前自身が魔法のようなものってことか?」


 黒衣の男の内側には何も無かった。…正確に言えば現在進行形で無くなっていっていると言った方がよいだろう。そこには暗がりだけがあり、その奥のほうで呪符がどんどんと焦げ付いていっている。そして呪符の劣化に合わせるようにフキの身体も解けるように解けていっているのだ。


 頑丈な素体を操る場合、それがそのまま存在を世界に固定化する頚木となるのだが、呪符だけで分身を作り出しているフキは、簡単に世界から弾き出される不安定な存在なのだろう。物理的な肉体をもつ存在ではないからこそ、その致命傷は通常の生命とは異なるのだ。


「魔法と呪術は異なるのだが…まぁその認識でもそう間違っては居ないだろう。一か八かの賭けだったのだがな…、一度崩壊が始まってしまえばもう止められんよ…」


 フキは嘆くように泥に塗れた片腕を持ち上げてみせる。既に致命的なところまでその存在が崩壊し始めているのかその腕は既に人の形をしていない。まるで泥に溶かされるように存在が解け、纏わり付いていた泥が支えを失って落下していっている。


 だが同時に俺は妙な違和感も覚えた。あの倉庫の前で戦った分身は今目の前で消えかかっている分身ほど弱くはなかった。高々蹴りを食らわせた程度でこうも簡単に崩壊するものだろうかと。だからこそ安易に近づくのではなく、消え去るのを待つようにフキの様子を観察した。


「随分語ってくれるじゃないか。今後俺と戦う予定は無いと?それとも多少のタネが知られたところで勝つ自信があるのか?」


「そうだな。全てのタネを教えたわけではないし…何よりお前と戦う予定は無いだろう。今後はな…」


 俺がフキに尋ねかけると奴は嫌悪感を抱くほど不気味な笑みを浮かべてみせた。存在の消えかかっている顔は向こう側が透けて見えており、更には渦巻く煙のように歪んでしまっている。嘲笑うようなその表情は今の状況が奴の思惑通りに進んでいることを俺に教えてくれた。


「…やはり風魔法使いは足元からの攻撃に弱いらしいな。普段から風に頼っている分、疎かになるのだろう…」


 フキの口からそんな言葉が漏れるが、俺の意識は別のところに向いている。俺の足元の泥の中から巨大な口が現れたからだ。泥で構築されたその巨大な口はまさしく沼沢鯰を模したものだ。俺は咄嗟に飛びのいたものの、片足をその口に加えられてしまう。そのまま宙高く跳ねた沼沢鯰はその全貌を明らかにした。


「ぁぁあぁぁああぁぁあああ!フキ!お前…俺を!…俺を使いやがっだな!なにが…防御の呪符…だ!」


 泥で出来た沼沢鯰の額には泥の下に収まっていたハカの姿がある。鎧はまだ形を保ってはいるが恐らくは中に入っていたハカ自身は無事ではないのだろう、鎧の隙間からは肉色の何かが漏れ出ており、それが泥と同化するように繋がっている。その肉色の何かは脈動をしており命がそこに残っていることを感じさせるが、鎧の中から漏れ出るハカの声は人の声では無くなりつつある。


「はははは!見ろ!これが転命符!命を別の形に変質する最も深淵に近い呪術の一つだ!」


 フキは高らかにそう声を上げると、とうとう存在を維持できなくなって消え去っていった。恐らくは事前にハカに何らかの呪術を仕込んでいたのだろう。それがハカの命を使いこの沼沢鯰を顕現したのだ。


 命を扱うのは呪術や呪法の得意分野ではあるが、まさかその場で化け物を作り出すとは思ってもいなかった。俺は足を咥える沼沢鯰の口を切りつけて脱出を試みるが、泥で出来ているにも関わらずその口は硬質ゴムのように強固で簡単には切断ができない。


「ぁぁああぁぁあああ!もう…戻れない…!…戻れない!…戻れないよぉ…」


 結局、沼沢鯰は俺を咥えたまま泥の中に戻る。俺は窒息を防ぐために周囲を風で強固に覆うが、そんな必死な様子の俺を嘲笑うように沼沢鯰は大地の中を泳ぎ始める。暗い地面の中でただただ悲痛な悲鳴をあげるハカの声が響いた。


 そして大地の中を泳いでいた沼沢鯰はゆっくりとその身を地中に横たえ動かなくなったが、その口は変わらず俺の足を強固に咥えたままだ。俺は沼沢鯰が俺を丸呑みするために口を開く瞬間をじっと待ったが、一向に沼沢鯰は口を動かす素振りを見せない。


「呪術で作り出した魔物の癖に…習性まで再現してやがるのかよ…」


 沼沢鯰はこうやって地中に獲物を引きずりこんだ後、獲物を窒息死させてから丸呑みにするのだ。俺は周囲に風を取り込んだお陰で未だに呼吸は出来るが、それでもいずれは限界が訪れるだろう。通常の生物よりも長く息を保てるため、沼沢鯰が勘違いして丸呑みにしようとすることを願うが確証を得ることはできない。


 俺は内心に沸き起こる焦りを必死に押し留めて息を潜める。パニックになって息を荒げてしまえばそれこそ本末転倒だろう。いざとなれば足を切り飛ばすことを視野にいれ、いずれ来るかもしれないチャンスに俺は必死で感覚を研ぎ澄ます。


 未だにハカはブツブツとなにやら念仏のように声を垂れ流していたが、感覚を研ぎ澄ましたからだろうか、ハカの声では無い何かの声を俺の耳が拾った。


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