第650話 虚空に向かって猫が鳴く

◇虚空に向かって猫が鳴く◇


「なんでここで|妖精猫が動くんだよっ!?」


 隔離空間に続く扉と研究室の扉を繋げたのはネズミ捕獲長なのだが、学院の全ての猫は初代学院長の使い魔であった|妖精猫が率いている配下でもある。空間を繋げるなどという高位の魔法を猫の範疇を脱していないネズミ捕獲長が行使できるはずがなく、目の前で起きた現象は|妖精猫が遠隔で行使したに他ならない。


 |妖精猫が学院に属する者を害することは無いのだが、それでも目の前で護衛対象が攫われるなど大失態に変わりない。俺は周囲に吹かせていた風を追い風に変え、閉まってしまった扉に目掛けて飛び掛り勢い良く扉を開け放った。


 しかし、案の定俺が開いた扉の先は今までと変わらないマルフェスティ教授のプライベートスペースが広がっているだけだ。花柄のテーブルランプに柔らかな色合いの寝具、猫を模した可愛らしい小物入れや刺繍の施されたクッションなど意外にも女性らしい室内に彼女の姿は無い。


「ハルト、落ち着いて。|妖精猫の仕業ならマルフェスティ教授は無事なはずだよ。…それよりも…」


「なんで|妖精猫がこんなことをしたのかが問題ですわね。…この子は何を考えているのでしょうか」


 俺らの視線は扉の前でちょこんと座っているネズミ捕獲長に向く。ネズミ捕獲長は悪びれる様子も無く、それこそ自分の仕事の成果を誇るようにニャァンと鳴いて俺らに答えた。猫語を履修していれば、この猫が何をしたいのかが分ったのかもしれないが、生憎と俺らは猫語は分らない。俺は額に手を当てて深々と溜息を吐き出した。


 マルフェスティ教授の行き先が|妖精猫の作り出した隔離空間であるのならば、今から総出で学院内を探しても彼女を見つけることはできないだろう。再び彼女に見えるには|妖精猫に彼女を解放してもらうか、俺らもあの空間に案内してもらう必要がある。


「|妖精猫がお茶会にマルフェスティ教授を招いた可能性もあるが…、もしかしたら緊急避難の可能性もある。今のところ怪しげな気配はしないが…」


「前の事件みたいに…マルフェスティ教授を安全なとこに仕舞いこんだってことですか…?敵さんが来てるのでしょうか…」


 どうするもこうするも、こうなってしまえばお手上げである。それよりも俺らは|妖精猫がマルフェスティ教授を避難させたと判断して、まだ見えぬ何者かに対して警戒心を引き上げる。しかし、俺らが空気を張り詰めさせる一方で、ネズミ捕獲長は暢気に欠伸をした。


 だが戦闘態勢を整えたのは正解であったのだろう。ネズミ捕獲長は俺の険しい顔を確認すると、誘うように再び扉を引っかき始める。俺を見ながら扉を掻く仕草は、まさに俺にもう一度扉を開けろと言っているようで、俺は少しばかり逡巡したものの、ネズミ捕獲長に促されるようにして扉に手をかけた。


「…!?ハルト!?」


 どこか遠くでナナが叫ぶ声が聞こえた。だが、俺の感覚は既に研究室から離れており、まるで重力が絶えず方向を変えるような感覚に襲われていた。まるで鈍重な二日酔いのような感覚ではあるが、周囲の景色が一変すると共にその感覚も直ぐに消え失せた。長いとも短いと思いえるような不思議な感覚をやり過ごした俺は、何故だか木立の脇に立っていた。ナナやメルル、タルテの姿はなく、代わりに足元には毛玉の気配がある。


 ニャンと足元にいるネズミ捕獲長が短く鳴いた。戸惑う俺をよそにネズミ捕獲長はさも当然と言うようにそこに佇んでいたのだ。即座に周囲を確認すれば、恐らくは学院の何処かに飛ばされたのだろう、俺の後ろにはレンガ造りの建物が聳えており、丁度扉がレンガの壁と同化するように消え去っていく瞬間であった。


「んだ小僧。どこから沸いて出やがった?」


「…見覚えのある奴だな。風魔法を使う双剣使いのはずだったが…どうやら鼻もいいらしいな…」


 混乱を収めるために落ち着いて周囲の状況を確認したいところだが、目の前に広がる小さな木立の向こうには学院の内と外を隔てる壁が顔を覗かせており、丁度二人の男がそこを乗り越えて現れた瞬間であったのだ。


 片方の男は例の黒衣の男、フキで間違いない。もう一人の男には見覚えが無いが、十中八九、蛇の左手の一員なのだろう。彼らもまた俺と同じように、いきなり現れた俺という存在に驚いている。互いに想定外の接触であったからか、妙に気まずい空気が周囲に漂った。


「ええと…こんばんわ?学院に御用の方は正門の受付に行って欲しいんだが…」


「フキよぉ。お前腕が落ちたんじゃねぇか?仕込んだ札も半分以上が不発だったんだろ?」


「そこのクソ猫のせいだ。まさかとは思ったが…どうやら呪符と理解したうえで排除していたらしいな」


 念のため、俺が学院の生徒として丁寧な案内を述べたのに、奴らは俺を無視して言葉を交わしている。奴らの後ろの壁には複数枚の札が張り付いており、それが壁に備わった結界に干渉して穴を開けている。恐らくはフキが呪符を使って結界をこじ開けたのだろう。そして、こいつらの侵入があったからこそ、|妖精猫はマルフェスティ教授を避難させたのだ。


 まさか学院の結界がこうも簡単に穴を開けられるとは思っていなかったため驚きはしたが、良く見えればフキの呪符は内側から干渉されている。外からの進入を感知するであろう結界であるがゆえに、内側からの干渉には弱いのだ。


 では何故フキが内側から干渉できたかと言えば、奴の技能を思い出せば得心がいった。恐らくは目の前にいるフキは例の分身であるのだろう。生身の人間ならまだしも、紙にすぎない呪符であれば秘密裏に学院の内部に運ぶことも難しくは無い。奴はそうやって内側から仲間を引き入れたのだ。


「…お前…もしかして呪符を狩ってたのか?」


 俺の素朴な問いかけに、足元の猫は誇らしげに短く鳴いて答えた。どうやらネズミ捕獲長は俺の知らないところで学院に進入したフキの呪符を排除して回っていたらしい。それでも狩り切れなかった呪符が悪さをし、それが目の前の結果に繋がっているのだろう。


 俺の推測を裏付けるように、フキの憎々しげな視線がネズミ捕獲長に注がれている。猫に腹を立てているフキの様子が面白かったのか、もう一人の男はニヤニヤとした笑みを浮かべているが、その視線は俺から逸らされる事は無い。俺もその視線に答えるように、剣に手を添えてもう一人の男を睨みつけた。


「…殺しは極力控えろと言っていたよな。こいつはどうすんだ?向こうは通せんぼするつもりだぜ?」


「その男は雇われの…傭兵か狩人だろう。生徒でないから問題にはならないはずだ」


「んだよ。関係者以外も入れてるじゃねぇか。お前にしては段取りが甘いよなぁ」


 貴族の多いオルドダナ学院で殺しをすれば面倒なことになると分っているのか、フキともう一人の男は俺をどうするか言葉を交わすが、俺を学院の部外者と勘違いしているのか直ぐに排除すると判断を下した。


 フキの言葉を受けて、もう一人の男は面倒臭そうに、それでいて何処か楽しむ気配を漂わせながら俺を吟味するように見つめる。研究室に残されているナナやメルル、タルテが気がかりではあるものの、今はほかの事を考える必要は無い。俺は剣に添えた手をゆっくりと握り締めた。


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