第649話 見なくとも風で感じる

◇見なくとも風で感じる◇


「ふぅ…。魔法使いとはかくも便利な存在なのか。まさか研究室で湯浴みができると思わなかったよ。ああ、ナナ君。もう少し湯を熱くしてもらえるかな?」


 夜は更に暗さを増し窓から覗く天上には星々が瞬く頃、研究室の奥のマルフェスティ教授のプライベートスペースからは、夜のしじまを縫うように女性陣の会話が漏れ出してくる。扉の向こうから聞こえる音には彼女達の会話だけでなくチャプチャプとした水音も混じっており、それが彼女達がなにをしているかを如実に物語っている。


 今、隣の部屋では女性陣が湯浴みをしているのだ。マルフェスティ教授は研究室の隣を宿泊のために使っているが、本来は泊まるような部屋ではない。そのため、体を清めるには水で塗らした布で体をぬぐうのが精々なのだが、ナナとメルルがいれば温水を体に纏わせて擬似的に湯船に浸かることができるのだ。


「構いませんけど…のぼせて昨日みたいに半裸でうろつかないで下さいね。特に隣の部屋にはハルトがいるんですから、ちゃんと着物を着るまでこの部屋から出しませんよ」


「き、昨日は偶々失念していただけなのだよ。まさか私が好き好んでハルト君に下着姿を見せたと思っているのかい…!?それではまるで痴女ではないか…!」


「あら…、わざとではなかったのですわね。私はてっきりハルト様を刺激してからかっているのかと思いましたわ。…それと…研究室の部屋を開けるときは、自分だけでなく私達が服を着ていることも確認してくださいまし。昨日みたいに私達がまだ裸の状態で扉を開け放たれてはたまりませんわ」


「…せっかく忘れていたのに思い出させないでくれたまえ…恥ずかしいではないか…。…扉の件はすまない…。なにぶん、このように夜まで誰かと共に過ごすのは久しぶりでね…」


「わぁ…!教授さん…真っ赤です…!…のぼせているみたいですね…」


 野営中は今のように女性陣が近くで湯浴みをするなど毎度のことなのだが、新鮮そうに喜ぶマルフェスティ教授がいるからか、あるいは屋内という状況がそうさせるのか、慣れているはずなのにどうにも意識が女性陣に向いてしまう。俺はどこか居心地の悪さを感じて誤魔化すように傍らに寝ているネズミ捕獲長の背中を撫でた。


 ネズミ捕獲長は俺に撫でられて喜んでいるのかゴロゴロと喉を鳴らすが、少しでも撫でて欲しい箇所から逸れると、ガブリと俺の手に噛み付いてくる。ゴロゴロとガブリを数回繰り返すと、湯浴みを追えたのか、隣の部屋の扉が開かれほのかに上気したマルフェスティ教授が姿を現した。残念ながら彼女の後ろにいる他の女性陣までも確りと服を着ており、流石に昨晩のような幸運には見舞われなかったようだ。


「はぁ…暑いな。ハルト君。すまないが風を吹かせてもらえるかな。…少しのぼせてしまったみたいなんだ」


「構いませんけど…湯冷めする前に言って下さいね。髪だって…メルルに乾かしてもらったほうが早いですよ」


「ああ、それは後でそうしてもらうよ。…君らがいる生活に慣れてしまうと、元に戻れるかが怖くなってしまうな」


 マルフェスティ教授は脱力するように椅子に腰掛け、そんな彼女に向けて俺は風を吹かせる。日中はまだまだ暑いものの、夜更けとなれば空気も大分冷え込んでいる。俺が窓から流入させた涼しげな空気が気持ちいいのか、マルフェスティ教授だけでなくナナやメルル、タルテも俺の風に当たろうと近場に腰掛けた。


 彼女達の髪が風で軽く靡き、どこか甘いような香りが充満する。だが、それをぶち壊すように僅かに血と金属の香りが漂うのは、彼女達の装備から香るものだろう。俺も彼女達も別にマルフェスティ教授の部屋にお泊り会に来たわけではない。護衛のために待機しているためその恰好は戦闘に備えたものなのだ。


 それでも風呂上りに装備を着込むのは流石に暑苦しいのか、ナナは俺の視線など気にすることなく胸元を摘んでパタパタと仰ぎ、メルルは溜まらず闇魔法を行使して俺の風を更に冷やしている。唯一、装備よりも肉体のほうが頑丈なタルテは修道服という比較的涼しげな服を纏っているが、それでも胸元に熱が篭っているのかナナのように服を摘んで仰いでいる。


「ネズミ捕獲長がこの時間までいるのは珍しいな。冬場は私のベッドに潜り込むことも多いのだが、大抵はそっけない猫なのだよ」


「学院の猫が懐くのは珍しいですわね。…数年でいなくなる生徒と違って、教員には懐きやすいのでしょうか…」


 俺の隣で惰眠を貪っていたネズミ捕獲長は、大きく伸びをするとマルフェスティ教授の足に擦り寄った。どこか人懐こいその様子に、マルフェスティ教授も軽く驚きながらその背中を撫でる。学院の猫は人慣れはしているものの、気高い故か懐くことは少ない。毎年、数多の学生を振り回す罪作りな猫達だが、マルフェスティ教授の足に擦り寄るネズミ捕獲長にはその面影が無い。


 ネズミ捕獲長は俺らの視線を集めながら、足音も立てずに女性陣が湯浴みをしていた隣の部屋に続く扉をカリカリと引っかいた。俺が冷たい外の空気を研究室の中に流入させたからか、より暖かい空気の充満する隣の部屋に移動したがっていると思ったのだろう、マルフェスティ教授は隣の部屋は暖かいぞと猫なで声で語りかけながら立ち上がる。


「一緒に眠るですか…うらやましいですね…。今の私では抱っこが精一杯です…」


「そこまで羨むものではないよ。温いのはいいが…満足に寝返りがうてないからね。真上に乗られてうなされたことだって数え切れないさ…」


 そう語るものの、マルフェスティ教授はどこか嬉しそうである。ネズミ捕獲長に催促され、マルフェスティ教授は彼女の眠るベッドが置かれている隣の部屋の扉に手をかける。ネズミ捕獲長はその様子をただじっと見つめていたのだが、彼女が扉に手をかけると同時に、ミャンと小さく鳴いた。


「…は?」


 ネズミ捕獲長の声はささやかなほど小さな鳴き声であったが、その透き通った鳴き声は不思議なほど周囲に反響した。そして、その鳴き声に続くようにして、扉を開けたマルフェスティ教授がどこか間の抜けた声を呟いた。


 マルフェスティ教授がそんな声を上げたのも仕方が無いだろう。彼女のプライベートルームに続いているはずの扉の向こうは、彼女の知らない光景であったのだ。薄暗く様々な物が陳列されたその部屋は、魔女の研究室と表現するのが正しいのだろうか。日常からはかけ離れた光景であるであるはずなのに、何故か居心地の良さを感じてしまう。


「…ひゃぁ!?」


 俺らが呆けている間に、ネズミ捕獲長が前足でマルフェスティ教授を叩く。その瞬間、まるで見えない何かに引っ張られるかのようにしてマルフェスティ教授がその部屋の中に吸い込まれた。俺はその部屋が|妖精猫の作り出す隔離空間だと気が付いたが既に遅い。マルフェスティ教授を閉じ込めるかのようにしてその扉は独りでに閉まり、俺らとマルフェスティ教授を隔絶するように音を立てた。


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