第641話 残夜の騎士団の拠点
◇残夜の騎士団の拠点◇
「さぁさぁ、上がってくれたまえよ。…もてなしのほうは期待してくれないでくれ…。何分、客を招くのは初めてなのでね」
マルフェスティ教授は扉の鍵を開けて家の中に俺らを迎え入れる。学生街に程近い小さなその一軒家こそが彼女の家であり、教授である彼女にしては随分小さな家だと感じてしまう。恐らく彼女のことだから利便性を優先して学院に近いこの家を選んだのだろうが、それでも扉の鍵を開ける際に手間取っているあたり、普段から利用していないことが予想できてしまう。
俺らの後ろにはオッソの姿もあり、彼は注意深く家の周囲を確認している。俺もそうではあるのだが、敵が攻める際に利用するであろう経路などを探っているのだろう。事前に建造物の弱点を把握することができれば、いざという時に迷わず動くことができるはずだ。
「意外に片付いてますね。…研究室があの惨状なので、ちょっと警戒していました」
「…あの部屋を見られた後では言い訳もできないが、単純にこの家は使っていないのだよ。普段は研究室に泊り込んでいるのでね」
マルフェスティ教授の家の中はあまり生活感が無く、物自体が少ないためどこか
念のため誰かしらが侵入した形跡が無いか調べるが、少なくとも直近で誰かしらがこの家に入った形跡は無い。既に蛇の左手が仕掛けてきている可能性を考えながらも、ギシギシと軋む音を立てる床を踏みしめながら俺は家の奥へと足を進めた。
「使っていないのだからまさしく無駄ではあるのだが…、学院が住所不定は困ると言っていてね。こんな家なんぞ無くても構わないだろうに…」
「…今まさに必要とされているではないですか。狩人や傭兵のような根無し草ならまだしも…教授職なのですから客人をもてなすための場所ぐらい整えてくださいまし…」
マルフェスティ教授の態度にメルルが呆れたように言葉を漏らす。そして彼女は香水のような小瓶を取り出すと、中に入っていた水でテーブルや椅子の埃を洗い流した。そのまま椅子に腰掛けた彼女は手入れがされていない部屋をゆっくりと見渡した。
彼女に続くようにして俺らも腰掛けたいところだが、残念ながら椅子の類が足りないため、俺やオッソなどは体重を預けるように壁に寄りかかる。そして自然と会議をするように輪になった俺らはゆっくりと口を開いた。
「…それで、この家は残夜の騎士団に預けて頂けるのですね?」
「ああ、崩壊しない程度には活用してくれて構わないよ。私は今までと変わらず研究室に泊まるから…その間は…」
「俺達が護衛しますよ。どの道、いくらあなた方でも学院で警護することはできないでしょう?」
最初に口を開いたのはオッソだ。空き家のような家ではあるが、まさしくここはマルフェスティ教授が所有する家屋であるため、残夜の騎士団が待ち伏せするための拠点として選ばれたのだ。
マルフェスティ教授が取った選択は、残夜の騎士団にメルガの曲玉を預け、更には自身の警護を俺らに任せるというものだ。そもそもオッソは、マルフェスティ教授が毎晩この家に帰り朝になれば出勤するという真っ当な生活をしていると考えていたからこそ身辺警護を提案したのだろうが、残念ながらマルフェスティ教授は研究室に住むという研究者としては常識的な…一般人からすれば非常識な生活をしているのだ。
つまり、四六時中研究室に篭っているマルフェスティ教授を警護しようにも、部外者である残夜の騎士団は彼女が根城にしている研究室には立ち入れないという問題があるのだ。だからこそマルフェスティ教授は研究室に出入り可能な俺らにも身辺警護を依頼したのだろう。
…因みにルミエはこの場にいない。無情にも彼女はマルフェスティ教授の研究室の奥、泊り込みのためのプライベートスペースの掃除を言い渡されたのだ。研究室の掃除は既に終わったものの、そのプライベートスペースは俺らにお見せできる状態ではないらしい。
「それでは…このメルガの曲玉は君に預けておこう。この家で保管するつもりかい?」
「一応はその予定ですが、仲間と相談して新たに策を練るつもりです。こちらとしても下手を打って奪われる訳にはいきませんので」
マルフェスティ教授がメルガの曲玉を差し出すと、オッソは傭兵ギルドを公証人とした預り証を取り出した。マルフェスティ教授はその書類を一瞥すると俺に向かって差し出してきた。俺は彼女からその書類を受け取ると、細かいところまで目を光らす。
既にオッソのギルド証は確認したが、それこそ彼が残夜の騎士団を騙った詐欺師という可能性もあるのだ。もし仮にオッソが詐欺師だった場合、この傭兵ギルドが発行する契約書には粗が出るはずだ。それに本物の残夜の騎士団であったとしても、こういった契約ごとは確り確認する必要がある。
「…間違いなく本物ですね。契約期間は今から一月の間。それ以前でも双方の合意があれば解約可能…」
「依頼の失敗には違約金…、これはメルガの曲玉に関してだね。うぅん…現品返しじゃないのが気になるけど…」
「そこは申し訳ありません。万が一でもメルガの曲玉を奪われた場合…、我々のほうでも同等品を用意してお返ししたいところなのですが…用意できるものではないとギルドの方に叱られましたよ」
「…どの道、私がこの曲玉に見出している価値は考古学的なものなんでね。他のメルガの曲玉を用意されても意味が無いよ。せいぜい無事に帰ってくることを願ってるさ」
間違いなく正式な契約書であり、内容も問題は無い。メルガの曲玉を一時的に貸し出す代わりに、身辺警護に従事するという内容の契約書だ。ナナの言うとおり、メルガの曲玉が返却不可能となった場合は違約金での処理となるが、こればかりは仕方が無いことだろう。
マルフェスティ教授がその契約書に了承のサインを書き込むのを見て、オッソは恭しい手つきでメルガの曲玉を受け取る。彼の大きな手の中で、あいも変わらずメルガの曲玉は蠢くように鈍い光を反射していた。
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