第577話 闇の女神に触れる者

◇闇の女神に触れる者◇


「だから、アントルドン。馬鹿なことは止めてくれ。君の望むものは手の届く位置にあるだろう…」


 馬鹿みたいに笑うロスカーを無視して、メイバル男爵はアントルドンに話しかける。垂れ目気味のメイバル男爵の目は見開かれ、真剣なその表情はアントルドンに強く訴えかける気迫があった。しかし、その言葉を聞いてもアントルドンはどこか自嘲気味な笑みを浮かべるだけで、メイバル男爵の言葉が響いた様子は無い。


 メイバル男爵の言葉に嘘は無いのだろう。彼は本当にシャリアンの息子であるヒュージルに男爵家を継いでもらいたいと考えているようだ。メイバル男爵の視線は今まで会話に参加していなかったヒュージルにも向けられているが、ヒュージルは無反応を貫いている。


「…独り身にしては御歳を召しているとは思いましたが、そのような事情があったのですわね」


「男爵家を継いで貰うといっても、ヒュージルはマッティホープ子爵家の跡取りだろ?可能なのか?」


 彼の独白にはメルルも驚いたようで、状況の推移を見守りながらもそう漏らした。そんな彼女に俺は感じた疑問を投げかけるが、彼女は問題ないと小さく呟いた。


「一人で複数の爵位を持つ者は他にもいらっしゃいますわ。今回のように親戚の家が途絶えて継承権を引き継いだり…、他には…例えばナナの実家のネルカトル家は配下となる爵位の指名権を持っておりますので、捉えようによってはナナの父君も複数の爵位を持っているということもできます」


「…そういえばお父様はその内一つを私に授けるって言ってたね。ハルトのお母さんにも爵位を押し付けたかったみたいだけれど、何回も断られているって」


 俺の知らないところで我が家も貴族になる話があったらしい。ナナの実家は我が家にとって領主様ではあるのだが、巨人族にとっては我が家の方が本家となる妙な関係性だ。あまり本家を蔑ろにするのを嫌ってか、あるいは破天荒な我が母に少しでも首輪を付けたかったのかは分らないが、あの母の事だから貴族になることは断るだろう。


 そもそもの話、本家が貴族となって国に傅くのを嫌って代役として貴族になったのがネルカトル家だ。形骸化しかけている事情ではあるが、今になって貴族になってもそれは本末転倒だ。


「なんだよ。俺は取り越し苦労か?それが本当ならどの道俺が男爵になったんじゃねえのか?」


「ありえんな。お前に爵位を託すのは働きがあってこそだ。…その働きの結果はまだ出ていないぞ」


「そんなこと言ってもどうせ俺の知識がなきゃ、この土地は治められねぇだろ。爵位をくれなきゃ俺は動かねぇぜ」


 メイバル男爵の話は少しばかりは波紋を呼んだらしい。アントルドンとロスカーが爵位をどうするかについて互いに言葉を吐き出している。メルルが言ったようにヒュージル、あるいはアントルドンが男爵家を継ぐことになれば一人で二つの爵位を持つこととなる。


 だからこそ、アントルドンが欲しているのは厳密には領地であるため、あまる男爵位を報酬としてロスカーに受け渡すつもりなのだろう。そしてロスカーを代官としてこの土地の統治に起用するつもりなのだろうか…。


 本気で言い争っている訳ではないが、報酬という名の絆で繋がった二人にとってはそれは重要な話題だ。ロスカーは自身の存在をアントルドンにアピールするように彼に詰め寄り、それに伴って抱えられていたベルが強引に引っ張られることとなる。


「アントルドン!アントルドン・マッティホープ!どうなんだ!領地は君の物にだってなるのだぞ!人質を取ってこんなことを画策する必要は無い!確約が必要なら今ここで証書を認めたっていい!」


 強引に引きずられたことでベルの猿轡が外れて、同時に弱々しい彼女の悲鳴が漏れた。その声を聞いた途端、火がついたようにメイバル男爵は声を張り上げた。


 鬼気迫る彼の様子につい俺もそちらに意識が向きそうになるが、それを咎めるようにメルルが俺に言葉を投げかけた。


「あら。猿轡が外れましたわね。…ハルト様。私の声をベルに届けて貰えますか?」


 メルルはしたり顔でそう呟くと、即座にベルに話しかけ始めた。その声を確実にベルの耳に届けるため、俺は慌てて風で互いの声を繋ぎ合わせた。


『ベル?聞こえますか?今、あなただけに直接語りかけていますわ。あくまでも自然体で私の話を聞きなさい』


『…?メルルさん?ち、近くに居るんですか…?』


 姿は見えずとも、メルルの言葉が聞こえたことでベルの顔から緊張が取り払われる。ベルは俺の風魔法の使い方を知っているため、近場から俺らが声を届けていると即座に分ったのだろう。メルルとベルが内緒話をすると同時に、ナナとタルテは本格的に突入する準備をする。メルルが何をするかは分っていないが、彼女が策を弄したのであれば突入まで秒読みだと判断したのだろう。


『…文言は覚えましたわね。初めて使う魔法とはいえ、あなたと非常に相性が良いのですから必ず成功いたしますわ』


『わ、分りました。疲労を意識すればいいんですね?』


『ええ。今のあなたの状態もその魔法に適していますわね。水は高いところから低いところに流れるもの…。それは何も水に限った話ではないのですわ』


 内緒話の算段がついたのだろう。メルルは俺らに視線で合図を送る。俺らが頷いてその視線に応えると同時に、メルルとベルの口が同時に開いた。


「誰も私をわかってくれない。いつでも悪いのは私。月の昇らぬ十五夜じゅうごやに尖った心の子守唄…触るもの皆傷つけるドレイン・タッチ


 離れていても風で繋がった二人の声が重なりあう。メルルはベルを誘うために呪文を口にしたに過ぎないのだが、魔力を込めてその言葉を刻んだベルには仄暗い何かが渦巻いた。だが、それに気付けたのは魔法使いである俺らが彼女に注視していたからだろう。


 発動した魔法は音も光も無い派手さも無い…言ってしまえば地味な魔法であった。だがその効果は直ぐにでも現れた。…先ほどはメイバル男爵の独白を馬鹿にするように笑ってみせ、今はアントルドンに強気な言葉を投げかけていたロスカーであるが、ベルが魔法を発動した瞬間に唐突に動きを止めたのだ。


「あ…?な…が…まえ…」


 ロスカーの目は見開かれ、口は何かを叫ぼうとしたのかパクパクと動く。しかし漏れ出る空気は力なく、声帯を震わせるほどの勢いも無い。そして眼球がグルンと上を向いたと同時に、四肢から力が抜けて彼は崩れ落ちた。


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