第517話 男子学生の日常
◇男子学生の日常◇
「ふぅん…。勤勉というべきか…。どうにも調べがいが無いな」
今の俺は木々生い茂るバルハルト。まるで森の一角を切り取ったかのようにマントからは絡み合うように枝葉が伸びてギリースーツのように俺の体を覆い隠している。それこそ、先日出会った
あるいは、童話に出てくる悪い魔女に姿を木に変えられてしまった哀れな人間と表現したくなる姿だろうか。タルテの魔法によってこの姿になっているため、あながち間違いではないのだが、別に王子様のキスや美女の涙がなくても簡単に元の姿に戻ることができる。
「おい、ヒュージル。早くしないと食堂が混み始めるぞ。何時まで机に向かってるんだ」
「ああ、すまない。丁度レポートを書き切るところだったんだ。…そうだな。推敲は後で良いか…」
俺の視線の先では、調査対象であるヒュージルが友人らしき男と連れ立って教室から出て行く姿があった。俺はひっそりとその後を付けて対象の観察を続ける。俺の姿は都市迷彩ではなく森林迷彩であるが、緑の多いオルドダナ学院ではむしろ森林迷彩のほうが俺の姿を隠してくれる。
いかに木々に紛れようとも、動いてしまえば目立つことになるが、そこは風魔法で誤魔化すことができる。風を吹かせて木立を揺らし、さざめく草葉に紛れて転がれば、風によって動いていると人々は誤認する。今の俺は
『なんだ。ヒュージルは今日も豆煮込みか?好きだねぇ』
『安くて量も多いからな。お前こそいつもパスタばかりじゃないか』
『ソースが違うだろ。ソースが。たとえ本質が一緒でも、装いが変われば全くの別物。ワインと一緒だな』
『…それは君がワインの味が解らないだけだろ。ワインの価値はラベルにあるわけじゃない』
『女性だって装いを変えたらそこを褒めるだろう?それとも何を着ても一緒とのたまうつもりか?』
『そこは何を着ていても美しいと褒めるべきじゃないのか?』
俺は風を伸ばして食堂での会話を盗み聞く。中身が無いといってしまうと失礼だが、よくある取り留めの無い会話が延々と続いている。そこには俺が注目するような情報は見当たらない。この間にもゼネルカーナ家がマッティホープ子爵家について調べてくれているとはいえ、手ごたえの無い調査対象に溜息を着きたくなる。俺は気を紛らわすようにアンパン代わりの菓子パンを牛乳で飲み込んだ。
事前の情報で解っていたが、文字通り普通の生徒だ。交友関係は宮廷貴族の子爵や男爵家を中心に低位貴族を中心に、顔を覚えられる程度だが高位貴族家の子息にも通じている。かといって何処かの派閥にどっぷりと漬かるというよりは、着かず離れず…どちらかといえば中立を維持するように立ち回っている。
「今日も昼食は豆の煮込み…。昨日と書いてることは変わらないな。…なんで俺が他人の平凡で退屈な日常を嘆かなきゃならないんだ…」
俺は手元の紙にヒュージルの行動記録を書き込んでゆく。まるで学校のパンフレットに載せるような模範的な学生の一日の行動内容に、俺は灰色の青春を幻視してしまう。せめて彼が浮名を流してでもいれば、その模様を楽しめたんだが、残念ながらフラグが立っているような女性も存在しない。
食事を終えたヒュージルは次の授業に向かってゆく。授業の内容は領地経営学であるため、そこにはナナの姿もあり、彼女もチラチラと彼のことを意識しているようだ。更に彼女は俺の存在にも気付いたようで、小さく手を振ってきた。
長い授業を受け、図書館で課題をこなし、日が傾く頃には馬車乗り場へと向かってゆく。俺はタルテ謹製の森林迷彩マントを畳み込むと、校舎の壁面を垂直に登り、高所からヒュージルの動向を見下ろすように観察した。
オルドダナ学院の尖塔からは町並みを縫うように道が続いており、そこを彼の乗った馬車が走ってゆく。彼が乗ったのは個人所有の馬車ではなく、平民が乗るような乗り合い馬車だ。なぜ貴族である彼が乗合馬車に乗り込むのだと、初めて見たときは色めきたったものの、彼は貴族街の手前で降りると、そのまま自分の家に徒歩で帰宅したのだ。
案の定、今回も彼は貴族街の手前で降りてそこからは徒歩で帰宅する。宮廷貴族であるため、この王都にはマッティホープ子爵家の本邸が存在する。趣がある…悪く言えば年季の入った邸宅に彼は何事も無く入っていった。
「…今日の観察日記もこれで終わりだな。こっからはメルルの家が見張ってるし退散するか…」
見た限りではその存在に気が付かなかったが、風で確認してみれば彼の家を観察している者の存在を感知することができる。俺は身を翻し、建物の上を伝ってオルドダナ学院まで帰還する。
「ハルト。お帰り。はい、草のマントを回収しておいたよ」
「…よく見つけられたな。草陰に隠しておいたんだが…」
俺が学院に帰ると、そこにはナナが俺の帰りを待っていた。彼女から木々の茂ったマントを受け取ると、俺らは連れ立って歩き始めた。
「それで、なにかヒュージルさんについてわかったの?」
「いや、何も。ここ数日は変わらぬ日常を過ごしてるよ。…そろそろ調査をやめてもいいんじゃないか?」
正直言って進展の無い調査に辟易としている。狩猟でも長時間の張り込みなどを行うことはあるが、魔物の未知なる生態を観測するのと、男子学生の日常を見張るのではモチベーションに差が出るのだ。
「そうだね。少しメルルに相談してみようか。蠢く草だとか壁を歩く灰色男が噂されても困るしね。…ただ、少し気になっていることがあるんだよね」
「気になってること?」
ナナは軽く握った拳を顎に当てて思い起こすように考え始めた。俺は続きを促すように彼女に尋ねかけた。
「うん。ほら、ヒュージルさん…というかマッティホープ子爵家って宮廷貴族なんだよね?」
「メルルからの情報だとそのはずだが…」
「宮廷貴族ってことは中央の文官志望なんだろうけど…。じゃあ、今日なんか何で領地経営学なんて学んでるんだろうね?」
ナナの素朴な疑問が確かな違和感となって俺の意識に留まった。確かに言われてみれば彼の学んでいる内容には違和感がある。王府の部署は多岐に渡るため、学んでいて損になる学問は無いのだが、それでも領地経営学は何のために学んでいるのだろうか。
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