第512話 そして爺はいなくなった

◇そして爺はいなくなった◇


「ああ、逃げたぞ。あのエルフの翁。多分もう近くには居ないだろうな」


 戦後処理に負われる子爵邸で、さほど気にする様子も無く第三王子はそう言い切った。気にしていないのは第三王子ぐらいで、背後に侍っているモルガンやアデレードさんは随分と悔しそうな表情を浮かべている。俺らもまさか逃げているとは思っていなかったので、少しばかり呆けた表情を浮かべてしまった。


 だが、今思えばレキュラやシュルジュが人質のジュドゥルゥを無視して戦場を後にしたのは、ジュドゥルゥがまんまと子爵邸を逃げ出しているのを知っていたからだろうか。奴をとっちめるつもりで戦勝の喜びを味わうことなく戻ってきたのに、行き場を失った俺の刃が心の中で彷徨っている。


「逃げたって…、警備の者は居たんだよね?」


「裏切り者だ。内通者を怪しんでいたが、ここにきてやらかしたと言う訳だ。ま、その裏切り者は宮廷が用意した者だから、王子の面目とやらは立つらしいがな」


 第三王子はそう言いながら笑ってみせた。一体誰が裏切り者であったかと思えば、とある一室から青い顔をして震えているペクトゥナさんが姿を現した。その怯えようは余りにも哀れで、こちらの心に訴えてくるものすらある。


「も、もしかして…?ペクトゥナさんが…!?」


 その一室は取調室代わりであったのだろうか。まさか顔見知りである彼女が裏切り者であったのかと、タルテが信じられないものを見たような顔でそう言葉を漏らした。


「ち、違いますよぅ!先輩!私じゃなくて先輩です!」


 タルテの声が聞こえたのか、ペクトゥナさんがそれは違うと詰め寄るように訴え出る。目には涙が浮かんでおり、タルテもそれを見て申し訳無さそうに眉を顰めた。


「彼女の言うとおり裏切ったのは農務院の一人だ。彼女は…まぁ一応近しい人物ということで話を聞いていただけだ」


「ひぇ…っ!?王子様…っ!?」


 第三王子が彼女を擁護するが、ペクトゥナさんはここで初めて第三王子の存在に気が付いたようで、声を失いながら更に顔を青くした。まさか詰め寄った知人の話し相手が第三王子とは思っていなかったようだ。


 彼女は目を泳がせながら必死に言い訳を探そうとするが、それを第三王子が気にするなと言うように手を扇いでみせた。それを見てペクトゥナさんは身を縮めならが無言で必死に頭を下げた。


「農務院の者に内通者ですか…。その…なんと言いますか意外な肩書きの者ですわね…」


 あまり彼女に注目を集めるのも可愛そうになったのか、メルルが第三王子にそう切り出した。


「私も聞いて知ったんだがな、農務院の者は畑の選定を行うために事前にどこに向かうか知っていたらしい。それをエルフ達に裏流ししたんだろうな」


 そう言えば俺らもペクトゥナさんに予定地の畑の地図を都合してもらっていた。下っ端の騎士などには行き先は秘められていたものの、彼らはどこに向かうか事前に知っていたのだ。つまりシュルジュ達、樫の木クウェルクスの氏族が俺らの先回りをするように仕掛けていたのは、そこから情報を回して貰っていたというわけだ。


「てことは、その人がエルフのお爺さんを逃がしたってことですか?」


「状況証拠だけで判別するならな。そいつの部屋で小火騒ぎがあり、エルフの翁を見張っていた者に助けを求めたのだ」


 そしてその騒ぎに乗じてジュドゥルゥが逃走し、気が付けばその農務院の人間も姿を消していたらしい。なるほど、確かにそれならば怪しいことこの上ない。どうやら先ほど言った情報の裏流しも、その農務院の者に焦点が当たってから逆に辿ることで推測されたことらしい。


「うぅ…。散々な目にあいましたよ…。その小火の焚き付けには私の荷物が使われましたし、共犯と疑われて事情聴取されましたし…。そもそも先輩には矢鱈と仕事を押し付けられて…」


 先ほどは涙を蓄えていたペクトゥナさんの目は、今度は深い闇を蓄えている。ぼそりと呪詛のような言葉が吐き出されると、第三王子はびくりと身を震わせて彼女から一歩距離を取った。気のせいかハベトロットの上着が微かに明滅したようにも見える。彼女の言葉には呪詛が確かに乗っていたのだろうか…。


 余りにも居た堪れなくなったのか、タルテが慰めるようにペクトゥナさんの背中を摩った。心なしか彼女の蓄える闇が晴れて、瞳には僅かばかりの光が戻った。彼女が仕事を押し付けられていたのは、その先輩とやらが外部との連絡を取るためだったのだろうか…。今となっては真相はわからないが、少なくとも彼女は終始利用されてしまったらしい。


「そ、そういえばアンデスに聞いたぞ。だいぶ活躍したらしいじゃないか。あの光る樹なぞ、ここからでもよく見えた。あんな神々しい物が人の手で顕現したとはな…」


 これ以上ペクトゥナさんを刺激したくなかったのか、第三王子が露骨に話を逸らした。


「あ…、あれはよく育った羊のなる木バロメッツがあってこそですよ…!それに…もう消えちゃいましたし…」


「ああ、あそこまで大きな大樹が消えてみせた事もまた神秘的ではないか。街では祈る者もいたらしいぞ」


 タルテの顕現させた光る大樹はそのまま全てが光の粒子となって消えうせた。ほんの僅かな時間だけ現れた光る大樹に誰もが神聖さを感じ、祈らずにいられなかったのだろう。第三王子に褒められて、タルテはむず痒そうに身をよじり、俺の二の腕に角を擦り付けた。


 第三王子がその樹の姿を思い起こすように窓から外を覗き込めば、外では騎士や近衛兵が戦いの処理をするために慌ただしく動き回っている。だが、そこに旅の終わりの空気を感じ取ったのだろう。第三王子は目を落としながら、小さく憂いを帯びたように溜息を吐いた。


「片付けが終われば、王都に帰ることになるのだな…。私としてはもう少し行脚を続けたかったのだが…」


「…ジェリスタ王子。その片付けが簡単ではないのですよ。何よりこの騒動ですので…。ジェリスタ王子にも嫌というほど手を貸してもらうことになります」


 その憂いを晴らすようにアデレードさんが第三王子に忠告をする。憂いを晴らすというか…より大きな憂いで上書きをしたに過ぎないが、第三王子はギクリと身を竦ませた。実際に動き回るのは近衛や騎士、役人達なのだろうが、名目状は統括をしている第三王子も大量の事務処理をする必要があるのだろう。


 第三王子は助けを求めるようにモルガンを見るが、モルガンは冷や汗をかきながらも第三王子と視線を合わすことなく無表情を勤めてみせた。護衛であっても事務処理が相手では守りきれないのだ。ついで、第三王子はメルルやナナにも視線を投げかけるが、彼女達も意味深な笑みで応えるだけでそのまま俺とタルテを引っ張りながらその場から静かに退散することとなった。


 第三王子はこの旅で築くことができた友誼を噛締めるように口元を歪めてみせた。


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