第470話 機織の老婆
◇機織の老婆◇
「一軒だけ?…水車がありますから…粉挽き小屋でしょうか?」
俺は周囲を風で確認するが、近くに他の人家は無くこの谷底にこの家だけが取り残されたように佇んでいる。家の脇には苔むした石積みの水路が備わっており、谷底の川に向かって山の斜面か小川ほどの清流が流れている。
メルルが指摘したようにその水路には水車が備え付けられており、この雨の中でも軋む音を立てながら淡々と回っている。人の営みを表す音ではあるのだが、どこか寂しげなその音に寂しさを感じずにはいられない。むしろ、この自然に囲われた中に僅かばかりの人の営みがあるからこそ、そう感じてしまうのだろう。
「ちょうどいいな。雨宿りさせてもらおうか…」
俺らはその小さな一軒家に向かって足を進める。人里離れた場所に位置しているため、てっきり普段は使われていない空き家かと思ったのだが、近付くと中から何者かの動く音が聞こえた。さらには軒先にある窓からは、柔らかな蝋燭らしき灯りも漏れ出している。
俺らはその状況に目を合わせて無言で相談しあう。中に居るものが善良な存在とは限らないため、どうするべきかと考えたようだが、既に風で中の様子を確認した俺は問題ないと示すように静かに頷いた。
「もし、どなたかご在宅でしょうか?少しばかり雨宿りさせて頂きたいのですけれども…」
メルルが戸口を叩き家の中にいる者に声を掛ける。中からは作業をするような音が聞こえていたが、彼女の声が聞こえたのかその音がぴたりと止んだ。そして、メルルがノックした扉が俺らを招き入れるように静かに開いた。
「…旅人さんかえ?こんな天気に大変だねぇ。特にもてなしはできんけども、こんな婆の家で良ければゆっくりとしていきなさんな」
「ありがとうございます、助かりますわ」
俺らを迎え入れたのは、腰の曲がった小柄な老婆だ。…灰色のギョロギョロとした目にかぎ鼻、唇は異様に分厚く、お世辞にも見目良い姿とは言えないが、言葉ぶりはこちらを気遣うように優しげだ。
俺らは遠慮することなく家の中へと足を進める。手狭な室内では台所の竈が暖炉の代わりとなっており、俺らのためだろうか老婆はそこに追加で薪をくべる。他に室内にある物といえば、糸車に織機で、それらが部屋の大部分を占めてしまっている。
「お連れさんは具合が悪いみたいだねぇ。可愛そうにこんな冷え切って…。ほら、火に当ててやんなさい」
老婆は俺の背中に背負われた第三王子を竈の前に案内する。そこには毛皮の掛けられた長椅子が置かれており、俺はそこに寝かせるように第三王子を横たえた。ナナが手早く竈に火魔法を放ち、薪をくべて少しばかり勢いを無くしていた火が盛んに燃え始める。
モルガンもそのまま床の上に腰を下ろし、その両手を火に翳して寒さに震える身体を温め始めた。二人よりは比較的にこんな状況になれていた俺らも、その火を崇めるように身に受けながら冷えた身体をほぐしてゆく。
「…ご老人。すまないな…。いきなり邪魔をしてしまって…」
「何、一人で寂しく機織していたところだからねぇ。このくらい構わないよ」
第三王子がうなされるように老婆に礼を告げれば、彼女はにこやかに笑いながら織機の前に座り込んで布を織り始める。雨が屋根を叩く音と火が薪を舐める音に、規則的な織機の音が混じる。その調べが静寂を奏でながら、妙に居心地のいい時間が俺らの間に流れ始める。
「王子様…。失礼しますね…。…少し…熱が出てきているみたいですね…」
タルテが第三王子の傍らに座り込んで、彼の額に手を当てる。火に当たり体は温まってきたようだが、逆に第三王子の身体は発熱し始めたらしい。その言葉を聞いて隣に腰を下ろしていたモルガンが不安そうにタルテの診断を眺めていた。
…もし悪化するようならばメルルの闇魔法とタルテの光魔法で集中的に治療する必要がある。だが、状況によっては彼の病弱という問題を解決できるかもしてない…。
「ねぇ…。ハルト」
「分かってる。…だが、言葉には出すなよ…」
体調を崩した第三王子も心配だが、俺やナナの注意は別のところに向いている。メルルも同じことに気が付いたのか、怪訝な顔をして室内を見渡している。…竈の火や蝋燭の灯りで照らされた室内は一見するとよくある庶民的家庭の様式なのだが、どうにも細部に違和感があるのだ。
一言で言えば生活感に乏しいのだ。鍋や食器の類は置かれているものの使われた形跡は無く、竈の周囲に有りがちな調味料の類や保存食も置かれていない。これで埃が被っていれば廃墟や空家だと判断できるのだが、実際には老婆がいて細かいところにも掃除が行き届いているのだ。
ナナもメルルも老婆に対して警戒心を抱き始めるが、俺は余計な手出しをさせぬよう身振りで彼女達に意図を示した。…俺には一つ心当たりがある。だからこそ、彼女の正体を俺は口に出すことができない。
「ご老人は…何をしているのだ?糸が沢山並んでいるが…」
「あんれまぁ。織機を知らないのかえ?あんたさんが着ているその服も、こうやって糸を紡いで布を織って作るんだよ」
俺らの警戒心を他所に、第三王子は横になったまま老婆の操る織機を物珍しそうに眺めている。彼は初めて織機というものを目にしたのか、老婆がいったい何をしているのか分からなかったのだろう。自分の仕事を紹介するように、老婆はゆっくりと説明をし始める。
「そっちの脇で動いてるのが糸車だよ。麻をほぐしたり羊毛を刈ったりして、その毛玉から糸を作るんだよ。…昔は手紡ぎでやったもんだから、女達が総出でやったもんだ。それでも得られるのはほんの僅かで、日がな働いてハンカチ一枚程度にしかなりゃしないのさ…」
「たったそれだけなのか…?その…女達は何着ものドレスを揃えると聞いているが…」
「ドレスだって?そりゃもっと手間が掛かるもんさ。一着作るのに、何人もの人間があくせく働いて漸く形に成るんだよ」
老婆は機織の手を止めずに第三王子と言葉を交わす。その手間から布は今でも高価なものではあるが、第三王子からしてみれば、日常に溢れたそんな品がそこまで手間の掛かるものだと思ってはいなかったのだろう。
第三王子は体調の悪化により辛そうにはしているものの、初めて見る機織を楽しそうに眺めている。それはモルガンも同じようで、無心で老婆の作業を見詰めていた。警戒する様子の無いモルガンに代わって、ナナとメルルが無言で見守りながらも警戒心を抱いている。だが、俺が口を挟まないように振舞っているために彼女達はそれにしたがっているようだ。
…俺は老婆に交渉するため、彼女の近くにゆっくりと腰を下ろした。
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