第464話 冷たい雨が頬を撫でる
◇冷たい雨が頬を撫でる◇
「ほらタルテ。乾かしますから手を上げてなさい。もう、こんなに濡れて…。」
雨が屋根を打つ音を聞きながら、メルルが水魔法を行使して濡れた着物から水分を引き出すようにして乾かしてゆく。馬車の室内の空気は俺が流動させ、その空気をナナが火魔法で暖めているため馬車の中は温室のように暖かい。三人の魔法を合わせることで、朝方の出立で濡れた体が乾いてゆく。
だが、馬車の外はそうとも行かず、馬に跨った騎士達は外套を纏っているものの、冷たい雨にその身を晒している。雨は朝から勢いを増し、騎士達は忌々しげな顔で汗を拭うように顔に滴った水を払う。周囲の木々やその幹に生じた苔は濡れたことでより緑を濃くし、剥き出しになった岩肌を水の筋が幾本も連なって流れ落ちる。
「結構雨脚が強いね。道は大丈夫かな?泥濘に嵌らなければいいけど…」
「そうなったら俺らもいったん外に出て馬車を押すハメになるな。まぁ、この山道の土壌なら大丈夫なんじゃないか?知らんけど」
バグサファ地方に豊穣の力を齎すに行くにあたって、現地の土壌を少しばかり調べてある。ここの山系は花崗岩土壌が主体に構成されており、粘土質が少ないため車輪が取られるような泥状にはならないはずだ。
豊穣祈願の行脚の地に選ばれたのは政治的な理由もあるのだが、純粋にバグサファ地方は不作に悩まされている土地だ。タルテ曰く、花崗岩土壌がその不作の原因らしい。余りにきめ細かな花崗岩の砂は雨が降るたびに土が絞め固まり、植物の根が呼吸困難になってしまうそうだ。
「…ハルト様。敵の姿は確認できますか?」
タルテを乾かし終えたメルルが、外を警戒するように窓を覗きながら俺に尋ねた。彼女がわざわざ口に出してまで心配しているのは、雨によって俺の索敵能力が鈍っているからだろう。
俺の索敵は広範囲から音を拾い、集中すれば風が触れる物体の輪郭を知ることができる。だが、雨の降っている現状では音はかき消され、空中に無数に存在する水滴は惑わすように俺の集中を妨げる。索敵可能な距離は変わらないものの、精度は格段に落ちてしまっているのだ。
「一応探ってはいるがあまり期待しないでくれ。モルガンが言っていたが、索敵に随分と人手を割いているらしい。こうも森に入っている人数が多いと、敵なのか味方の索敵なのか、あるいは山菜取りのお婆さんなのか区別がつかねぇ」
雨が俺の索敵の弱点だが、それ以上に苦手なのが人混みだ。そこに人が居ることが問題ない状況であるならば、俺にはそれが味方なのか敵なのか判別することができないのだ。先程から森の奥で動く数人組みの姿は確認しているが、斥候をしている騎士として判断している。
もちろん人ではなく魔物の類であれば見分けが付くのだが、わざわざこの難所で襲ってくる存在がいるのならば、それは魔物でない可能性が大きいだろう。
「斥候がでているならハルトが頑張らなくても大丈夫でしょ。あまり今から張り詰めていても仕方が無いよ。それに、私としては純粋に道を踏み外すほうが怖いよ」
「そうですね…。左側は崖みたいですから…馬が暴れたら落ちちゃうかもです…」
山肌を沿うように進む道は両方が崖に挟まれている。右側は崖の下に位置するので落石の危険はあっても落ちる心配は無いが、左側は谷底まで続く崖となっているため、タルテの言うとおり片側の車輪が落ちれば、そのまま谷底へと馬車ごと落ちてしまうだろう。
ただ、俺としてはやはり右側の崖の上が心配だ。もし敵の弓兵が潜んでいれば、ほぼ一方的に攻撃を受けることになるだろう。崖の上では斥候が馬車列と並行するように進んで敵が居ないことを確認しているが、それでも俺の脳裏には先日襲ってきた所属不明の集団が思い起こされる。
結局、あの集団が何なのだったかは未だに判明していない。近隣を根城にする傭兵団に狩人のクランなど候補はいくつかあるものの、旅路を進む俺らにはそれを特定する時間が足りなかったのだ。
その特定のヒントとなりそうな例の文様の刻まれた矢も、結局は容疑者を特定するには至っていない。文様は古い一族が使う呪術的文様らしいのだが、民間的に伝わっている内容であるために資料が不足しているのだ。それこそ、オルドダナ学院に戻って書庫で調べれば特定できるのだろうが…。
だが、やはりナナやタルテの言うように地形的な要因で難所と言われるだけあって、その後は馬車は停車と発進を繰り返すこととなった。切り立った崖の側を通過するために、一台一台慎重に進む箇所が度々出現するのだ。
「…これが外部と繋がる主要街道なんだから、いかにバグサファの地が隔絶されているのかが分かるな」
俺は度々停車することに苛立ちを覚えながらそう呟いた。ナナの言うとおり、あまり気を張らずに待つべきか…。
「どっちが先なんだろうね。道がこんな状態だから孤立してるのか、孤立してるから道がこんな状態なのか」
「聞いたことがありますね…。卵が先か…鶏肉が先かのお話でしたっけ…?」
「タルテ。それでは食事の順番になってしまいます。…
しかし、何度目かの停車の後、馬車はかなりの時間停車することとなる。しびれを切らした俺が馬車の前方を覗いてみれば、逆走するようにこちらに向かって小走りで駆け寄ってくる人間の姿が見えた。
「アデレードさん?どうしました?」
俺らの馬車に駆け寄ってきたのはアデレードさんだ。何か非常事態が発生したのかと、俺は装備を整えながら馬車の扉を開けて彼女を出迎えた。
「申し訳ありません。筋違いではありますが、少々お力をお貸し頂きたい状況になりまして…」
アデレードさんは濡れた外套から顔を覗かせると、その言葉と共に俺らに向けて頭を静かに下げた。
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