第354話 喧騒を抜けて静謐へ
◇喧騒を抜けて静謐へ◇
「この匂いって香辛料かな?…それに逆さ世界樹でも嗅いだ香りもするね。これが潮の香り?」
様々な匂いの入り乱れる空気を嗅ぎながら、ナナが少しの驚愕と共に呟いた。匂いの元はナナの言うとおり所狭しと並んでいる露店から漂う大量の香辛料や食材が齎すものだろう。俺らは露店の様子を見回しながら人混みを縫うように進む。見知らぬ商品が数多く並んでいるため、歩いているだけでも俺らを飽きさせずに楽しませてくれる。
「ああ、海が近いからここまで風に乗って潮の香りがするんだろ。それに海産物も多いみたいだしな」
「お魚があんなに一杯…!どの魚も初めて見ます…!!」
露店街の一画は魚市場になっており、そこでは故郷の蟹のように競りによる卸売りが行われている。そこからは海産物の纏う潮の香りが、香辛料の香りに負けじと漂ってくる。
麻袋から顔を覗かせる大量の香辛料。木箱に山のように詰まれた色彩豊かな果実類。そして暖簾のように連なる独特な文様の織物や編み物の類。木切れの板には墨で値段が書かれているが、そんな親切に値段を教えている物の方が少ない。誰もが並ぶ商品を目利きし、店員に価格交渉をして購入している。露店街は他の街にも存在するが、このブルフルスの露店は少しばかりその様子が異なっている。
一つ一つの露店の規模が大きく、中には商談スペースが設けられている場所もある。そして露店でありながらも店舗の作りは比較的確りとしており、看板には商会の名前が書かれている。大規模な露店街を見ていると、前世の見本市や展示会を思い出す。様々な企業が製品を持ち込み、ブースで披露するという点ではあながち間違ってはいないだろう。
他の街では露店は店舗を持たない個人や行商人などが設営するものだが、ここは貿易都市であるため、扱う商品が時期やタイミングで大きく変わる。そのため、大きな商会であっても棚割が楽なように露店という形で店を構えているのだろう。
それに何より、定期購買されるような商品であれば客の方から店を訪れてくれるだろうが、交易で仕入れた目新しい商品ならば、こちらから入荷したことを宣伝しないと客に知ってもらえない。そのためには露店販売という方法は、確かに合理的だ。
「…特に問題があるようには見えませんわね。ここいらの相場は分かりませんが、鉄製品も食料も高騰しているようには思えませんね」
「そういえば、安全に問題があるから護衛に呼ばれたんだったな…。メルルの言うとおり、争いの気配は感じられないな」
メルルの言葉を聞いて、本来の目的を思い出す。サフェーラ嬢の手紙には、それこそ戦地から友軍を撤退させるための手伝いのような内容が書かれていたが、この街がそれほど危険とは思えない。
「そうだね。治安が良いとは言えないけど…、街から安全に出れない状況とは思えないね」
ナナがスリ師らしき男をかわしながら呟く。懐に伸ばした手を手痛く叩かれた男は、舌打ちをしながら小走りで人ごみの中に消えていく。追いかけて奴からこの街の情報を搾り出しても良いが、それをすれば俺らの情報も出回ることとなる。そんな行為をするよりは、まずは護衛対象に会って話を聞くべきだろう。
「まずは、護衛対象に会いに行こうか。狩人ギルドには後から顔を出そう。状況によってはそのままギルドには寄らずに街を後にするかもしれないしな」
「多分…、教会はこっちだと思います…。ちょっと独特な造りの街なので…あまり自信はありませんが…」
タルテが周囲の建造物の様子を見ながら、街の北の方を指差す。そちらは、いわゆる住宅地となっているようで、人通りもこの市場と比べればそこまで多くない。教会は何処に建てるべきなんて戒律は無いが、公共性の高い建物なので建立する位置は何処の街でもさほど変わらないのだ。
現在、護衛対象は光の女神の教会に匿われているらしい。人を匿うという点では教会は街の中でもかなり安全性の高い場所だ。それこそ、貴族や領府の人間であっても、教会の中には簡単には手出しすることができない。他国であるブルフルスでもそれは大きくは変わらないだろう。
…逆に、護衛対象は教会に避難する必要がある状況ともいえる。情報が漏れる可能性を危惧したためか、サフェーラ嬢の手紙にそこまで詳しく情報が書かれていなかったことが、より俺らの推測を迷走させる。情報が少ない状態で悩んでも仕方がないと、俺はタルテの案内にしたがって足を進める。
「ありました…!教会です…!」
「闇の女神の教会もありますわね。…それに他の教会も…。争いにならなかったのでしょうか?」
「むしろ、場所の取り合いになるから纏めたんじゃない?ほら、ここって町でも中心部に近いだろうし…」
タルテの案内でたどり着いたのは街の北部の中でも中心に近い場所だ。そこは円形の広場があり、取り囲むように複数の教会が建立されている。特に珍しいのが唯一神教の教会もあることだろう。他の神々の存在を否定する唯一神教は他の宗教とすこぶる仲が悪い。そもそも唯一神教の教会を初めて見るが、その背景を知っていれば有り得ない状況に思えてしまう。
「…ナナの言うとおり、場所取り合戦を避けるためかもしれないが…、単純に一度に沢山お参りできるからじゃないか?」
よく観察してみれば、教会を梯子していく商人の姿が見て取れる。商売の景気付けにお参りをしているようだが、一つの教会に絞るのではなく取りあえず沢山お参りするという節操の無さも、商人らしいと言えばらしいのかもしれない。そう考えればこの教会の配置も無駄が無い。回転させるだけで経を唱えるのと同じ功徳があり、逆に徳を与えると回転しはじめるチベット仏教のマニ車のような効率性を感じる。
「どうしますか…?私がいれば裏口から入れると思いますが…?」
「…いや、ここは堂々と入ろう。裏口から入れば何かあると言っているようなものだ」
市場ほどではないが、周囲には人の目が多い。時間を掛ければ、それが単なる通りすがりの者か、教会を見張っている人間かは判別がつくだろうが、それまで俺らが潜んでいる場所も無い。修道服を着たタルテが同行するならば、単なる旅の修道士が訪れたように見えるため、ここは変に取り繕う必要も無いだろう。
俺らはタルテを先頭に、光の女神の教会の門を潜る。屋外よりも温度の低い教会内の空気が俺らを出迎えるが、それと同時に物々しい視線が俺らの肌に突き刺さった。
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