第239話 我が名はエイドリアン
◇我が名はエイドリアン◇
「すいません。…ご無礼していいですか?…もとより、
空気が変わったと、俺は思った。
先ほどまでは突然の乱入者である俺ら、特に貴族であるナナに飲まれていたような感じではあったが、タルテの言葉がきっかけになったのか、顔を伏せ静かに佇むギルの体は静かな意思を纏っているように見えた。
「…ナナリア様は…、闘える人間だとは思いますが、すいませんが自分の方が女性を殴ることに慣れていません。この前、タルテさんでそれを自覚しましてね。…まずは、そちらの護衛騎士にご相手を願えないでしょうか?」
ギルはナナの佇まいや格好を見て闘える人間と判断したのだろうが、その横に立つ俺へと狙いを付けたようだ。…別に護衛騎士と自己紹介したわけではないのだが、ナナの横に庇うように立っていたからか誤解したのだろう。
「ハルト。どうする?」
「いや、誘われたら断るわけにはいかないだろ…」
俺の言葉を聞いて、にやりと笑ったギルは上に羽織ったピチピチの鎧下を脱ぎ捨て、木柵の内へと足を運んだ。…これ、俺も脱がなきゃいけない感じ?
俺は服を脱ぎナナに預かってもらうとギルの後を追うように木柵へと向う。俺らの騒ぎを聴きつけたのか、木柵には治療を終えた男共が集まり始め、俺を誘うように筋肉の花道が形成されている。
左右から熱気を感じながら、俺は木柵の中へと身を乗り出した。足元は石畳の上に柔らかな砂が撒かれており、上空にはお手製であろう梁に魔道灯が輝いている。頭上から降り注ぐ光源に、俺らの足元に短い影を落とす。
「へぇ…。好い身体じゃねぇか…。良く絞れている」
「おい。鑑賞会じゃないんだろ。開始の合図はなんだ?…あと蹴りとか関節技は有りなのか?その辺のルールを教えてくれ」
頭一つ以上大きなギルと相対してルールの確認をする。しかし、俺の質問に悩んだようにギルは首をかしげた。
「…ルール?」
「…何だその未知の単語を聞いたような反応は」
「…いや、その辺はちゃんと決まってない。唯一決まってるのは互いの拳で殴りあうこと。そもそもこれは勝負じゃないしな。…そうだな。先手は譲ろう。それが始まりの合図だ」
思いのほかガバガバなルールに俺は目を瞬かせた。…拳で殴りあうということは蹴りや関節技は無しと考えて良いのだろうか…。総合格闘技というよりはボクシングと考えて挑もう…。
俺は腕を眼前に構え、ギルを見据える。ギルもそれに合わせて俺に向けて拳を構えた。
木柵の周囲に集まった男達が歓声を飛ばす。見ればタルテやメルルも治療を終えて俺らのことを興味深げに見詰めている。
「…シィッ!!」
一足飛びに間合いを詰め、ギルの鳩尾に拳を突き入れる。突進に近いような中段突き。俺の拳は強かにギルの腹筋を打ち据えるが、手応えの無さに俺は警戒心を引き上げる。
「…ングゥ…。ハルトだったか?…ここじゃ手加減はご法度だぜ!」
僅かに怯んだだけで、ギルはそのまま俺に反撃する。握られたごつい拳の衝撃が俺のガードの腕ごと頭に向って突き抜ける。
「ガッ!?」
思いのほか強い鈍痛に溜まらず多々良を踏む。…手加減をしたわけではないが、確かに様子見のために多少軽く打ち込んだ。それを咎めた彼の拳はまさに全力といった重みがあった。体重差の関係で押し込まれそうになるが、それを跳ね返すように俺も二撃目の拳をギルに向って打ち込む。
しかし、それでもギルの拳は止まらない。俺の拳を物ともせずにギルは返礼するように更に俺に拳を打ち込んでくる。
俺とギルの拳が打楽器となって地下室に音を響かせる。…ボクシングかと思ったが、どちらかと言うとプロレスの方が近いだろう。ギルは俺の拳を避けることをせず、その身体で受け止めてくる。
「いいぞォ!もっと!もっと俺を見てくれ!!」
鼻から血を流しながらギルは強烈なフックパンチを俺に見舞ってくる。避けても良いが、これが礼儀なら俺も受けてたとう。拳をその身で受けながら俺はカウンターパンチを叩き込む。
拳と頬に衝撃が走り、一瞬視界から色が消え失せる。
「クソっ。随分タフな身体じゃねぇか」
「君だってお互い様だろ?砂どころか、砂鉄をつめた袋を殴っているような感触だ」
血の混じった唾を吐き捨て、ギルの姿を観察する。…どうやらお互いに同じ感触を得ているようだ。俺の考えが正しければ、恐らくコイツは…。
「お前…、ギルだったな…?その身体にこの力。巨人の血が入ってるな…?」
「ハルト…?それ本当…?」
俺の呟きが聞こえたのか、木柵の外からナナの声が掛かる。…単なる身体強化の可能性もあるが、殴った感触や殴られた感触が巨人のそれに近い。貧民街出身でありながら十分な体躯を得ているのも巨人の血の可能性が高い。
特段、珍しいことではない。ネルカトル領では巨人の系譜の人間は大量に居るし、ネルカトル領が別の国であったころからこの国とは交流があったはずだ。むしろ、血を引いていない人間がいないことの方が不自然だ。
「ああ…?すまんが両親については何も知らないからな。自分の種族なんて気にしたことも無い。俺は俺だ」
「…剣術に悩んでいるなら、少し剣に拘ったほうが良い。少なくてもこの膂力なら普通の剣は使いづらい筈だ」
自分の種族など興味が無いと言わんばかりにギルが再び拳を振るう。俺も負けじと距離を詰めて殴りつける。周囲の男達も腕を振り上げ俺らを焚きつける。ナナもメルルもタルテも、この場のノリに慣れてきたのか、俺らに声援を送る。
殴り殴られ血と汗が迸る。こうも攻撃をくらいながらの戦いは母親との訓練を思い出す。ああ、肉弾戦は知らないが、巨人の剣術を教えれば、彼はもっと強くなるはずだ。
「どうだ!ハルト君!ナナリア様!これが!これが俺だぁ!!」
「うるせぇ!こんな自己紹介があるか!!」
ハイになったようにギルが叫ぶ。それに釣られて外野からも歓声が飛び込んでくる。ただただ純粋な殴り合い。ともすれば子供の喧嘩のようなそれは、ある意味では無邪気な何かを感じてしまう。
単純な殴り合いでは体重や体格が勝るギルが有利ではあるが、このまま負けてやるつもりは無い。これが自己紹介であるのならば、俺の巨人族ではない部分を見せてやろう。
ギルの拳をガードしながら、下に潜るように受け流す。自身の拳で死角となった位置に潜り込んだ俺を追うように、ギルは素早く身を返すが、それを感じ取った俺は逆方向に素早く切り替えし肌が触れるほどに肉薄する。
「…え?」
死角の隙間を縫うように移動した俺をギルは一瞬とはいえ見失ったのだ。溶けたようにギルの視界から消えた俺は、小さく、それでいて刺す様に鋭くギルの顎先へと拳を振りぬいた。
「おっほ…!これは…!たまになる奴だ!」
「待て待て…!抱きつくな!気持ち悪い!」
脳震盪を起して足を振るわせるギルは俺にもたれかかってきたが、溜まらずずり落ちるようにしてその場に膝を着いた。あたかもミラクルパンチに見える一撃であったが、それを成したのはハーフリング由来の器用さだ。
「勝負有り!勝負有り!」
「ッシャ!見たかオラぁ!」
倒れたことが終了の合図になったのか、木柵の一部が開かれ筋肉達が雪崩れ込んでくる。そして半ば胴上げのように肩車をされて俺らは称えられるようにして運ばれる。周囲からは一段と盛り上がった歓声が響き、誰もが熱気と共に腕を振り上げている。
身体が多少痛むが、それでもそれを掻き消すように高揚感が身体を駆け巡る。俺も周囲の歓声に答える様にして両腕を振り上げた。
…何しにきたんだっけ?
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