第237話 体は闘争を求めていた

◇体は闘争を求めていた◇


「おい。進捗はどうだ?」


 学院の隅の人目に触れぬ場所。そこには歴代の学生たちが作り上げた木造の掘っ立て小屋が並んでいる。学院に認められた集まりであれば、石造りの学院の建造物の一部が貸し与えられるのだが、すべてのクラブ活動が学院に認められるわけではない。


 そういった、ある意味非合法の活動をする者達が寄せ集まったのがこの木造街だ。そして、その木造街の更に奥。取り分けぼろい建物の一つが俺らの活動場所だ。


 土埃の染み付いた木の扉をつま先で押し開き、俺は中へと進入した。


「…ブラン。何サボっているんだよ。今月は材料の仕入れが遅れたんだ。その分取り返さないと足りなくなるぞ」


 粗末な建物の中では数人の生徒達が、鉄鍋やらガラス製のフラスコを攪拌している。しかし、俺の視線の先にはその作業の傍ら、木箱を椅子代わりに読書に励む相方の存在が映し出されている。


 コイツは俺らがまだ貧民街でゴミ漁りをしていた頃からの友人だ。…いやコイツだけではなく、ここにいる全員が貧民街でゴミ漁りをしていた仲なのだが、取り分けブランは俺と良く行動を一緒にしていた。


「ああ、これを読み終わったら手伝うよ。…まったく。知識人の中には全てを捨て去った貧民こそが真の自由人と評する者がいるけど…、実態を知らないようだね。結局は生きるために日がな一日あくせく働かなくてはならない。これのどこが自由なのだか…」


 …ブランは東方の遊牧民との混血児らしい。らしいと言うのは母親や父親にそのことを確りと確認したわけじゃないからだ。ブランという名前も、肌の色が茶色ブランだからそう呼んでいるだけだ。


 俺もブランも本当の親の顔は見たことが無い。物心付いたときには餓えに苛まれながらゴミ漁りをしていたからだ。


 それでも先生に拾われた俺らはまだマシな部類だ。そして大多数の捨て子は、マシな世界があることを知らずに死んでいく。飢えを凌ぐために汚い男に抱かれるのが当たり前で無いことを知らない。病気に係り渇いて死んでいくことが異常だと知らない。彼ら彼女らはそれが当たり前だと思って生きている。


「だが、知ってしまうことが不自由に繋がるという考えも理解できる。ゴミ漁りをすることが普通ではないと知ってしまった僕らは、もうあの頃には戻れない。確かにあの頃は生きるために精一杯で不自由ではあったが、…精神的には自由であったのかもしれないね」


 俺の考えていたことをなぞる様にブランはそう言葉を発した。…その特長から先生はブランが遊牧民との混血児と言ってはいたが…、俺はいまいち信用できていない。なぜなら遊牧民は誰もが口を揃えて産むことを知らない蛮族と評している。しかし、俺にとって賢い人間とは先生とブランなのだ。


 いつでも落ち着いていて、俺の知らないことを知っているブラン。彼が蛮族の血を継いでいると言うのであれば俺はなんなのかと悲しくなってしまう。


「ギル。大丈夫よ。貧民街で必要な分は大目に見てるからこれで足りるはず」


「ステア、そういうことじゃないんだ。決められた仕事をサボることが問題なんだ…」


 これでも貧民街ではクソガキどもを統率していたのだ。特別を許せばそこから組織が崩壊することを俺は知っている。


 …小汚い男共に囲まれて可憐な笑みを浮かべるステアは、この中で唯一貧民街の出身ではない。彼女は先生の孫だ。俺らのマドンナではあるが、手を出せば先生に殺されるので、誰も手を出さないアンタッチャブルな存在だ。


「…所詮僕らはどこまで行っても奴隷なんだ。裕福になれば物に支配される。ライフスタイルの奴隷になるんだ。全てを捨て去ってみても、結局は小麦の奴隷さ。生きるためにはせっせと小麦の世話をする必要がある。この世で最も成功した生物は人間ではなく小麦に違いない…」


 板の隙間から入り込む光の帯に手をかざしながら、ブランはまたよく分からないことを呟く。…彼は先生に自身の出生を聞いてからと言うもの、ああやって自身のあり方に酷く悩んでいるのだ。俺にとっては自分の出生などどうでも良いものだ。目の前にあり。俺の届く手の範囲のことが俺の全てだ。


「おい。そんなことより、ギルが来たって事はそろそろの時間か?今日は俺にも回してくれよ?」


 トムソンが脂で濡れた手で鼻の下を掻きながら俺に声を掛ける。


「…アナタ達。まだあんな野蛮なことしてるの?どおりで石鹸作りを焦ってるわけよ。そっちで時間を使ってるから時間が無いんじゃない…」


「そう言うなよ。なんか最近、他の生徒も良く参加するんだ。まぁ、兵士科だけあってみんな体が闘争を求めてるんだよ」


 ステアは棚にまだ柔らかい石鹸を並べながら俺らに冷たい視線を向ける。


 石鹸作りは先生に指示されたことだ。粗雑な獣脂と木灰を利用したものではあるが、貧民街では石鹸に回す金も無いため、俺らが作る低質ながらも格安の石鹸は非常に喜ばれている。先生が言うには不潔にすると病気が蔓延するらしいのだ。


「おい、ギル。トムソンは今日も参加させるな。こいつ、頬の骨がまだ治ってないんだよ」


「ブラン!治ったって言ってんだろ!既に半月もお預けなんだ!俺も参加させてくれよ!」


 トムソンがブランに食って掛かる。…確かにトムソンはに許可があるまで参加させるなと言いつけられていたな。


 …今日は彼女が来てくれる可能性が高い。トムソンは彼女に一目惚れをしていたから、恐らくは良いところを見せたいのだろう。


 俺は出来上がった石鹸を箱に詰めながら、今日の拳闘倶楽部に思いを馳せる。拳闘倶楽部は俺らの集まりで始まった、ステア曰く野蛮な行事だ。貴族なんかは決闘といって刃物での解決を図るらしいが、禄に医者にかかれない俺らは刃物を使うことはご法度だ。


 俺らだけではなく、貧民街のちょっとした諍いは、剣ではなく拳で決着を付けるのが暗黙のルールだ。先生の取り計らいで兵士科に入学することは出来たが、心のどこかでは剣を使った殺し合いではなく拳での力比べを求めていた。


 そう思っていたのは俺だけではないようで、気が付けば拳闘倶楽部と名付けた集まりが形成されていたのだ。そして、意外にもそれは人気を博した。


 奪うためでも、殺すためでもない純粋な暴力。…いや、闘うこと自体に目的を置いたそれは、暴力と表現するには語弊がある。とにかくそういった単純な力のぶつけ合い。ブラン曰く、痛みと犠牲に苛まれた生命の発露は俺らのような貧民街の人間以外にも波及し、いつのまにか大きな集まりとなっていったのだ。


 そんな中、現れたのがだ。ブランの鋭い拳が対戦相手の鼻を強かに捉え、血が止まらなくなった。非合法の集まりが故に医務室を利用できなかった俺らは、規制されるのを承知で彼を医務室へと運ぼうと考えていた。


 だがしかし、倶楽部の一人が彼女を呼びに言ったのだ。俺らと同じ生徒でありながら優秀な治療師。そして奇跡的なことだとは思うが、彼女は拳闘を理解してくれたのだ。ステアのように野蛮と卑下することは無かったのだ。


 俺たちは感動した。俺らのことを理解し、あまつさえ治療してくれる聖女のような子が存在していたとは、と。


 …彼女が双拳と呼ばれる、拳で闘う名の知れた狩人と知ったのは、俺の肋骨と右腕、鼻の骨が犠牲になってからであった。


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