第225話 せめて、あなただけは見てください

◇せめて、あなただけは見てください◇


「おい…!娼館はまだか…!もう随分歩いたぞ…!」


 何故だか湧いてくる焦燥感と恐怖心を誤魔化すかのように私はキャサリンに向けて声を荒げる。だが、キャサリンは私の怒声など慣れているかのように振り返る事無く路地を進む。


「大丈夫。もう少しで着きますよ。さっさと先へ進みましょう…」


 一歩一歩と娼館に近づいているはずなのに、胸のざわめきはどんどん大きくなっていく。


 …娼館に近づいている?


 今、私はどの辺りにいるのだろう?猫がまたどこかで鳴いているが、逆に言えば私の耳に聞こえるのは猫の鳴き声と彼女の靴音くらいだ。


 歓楽街が近いはずなのに、これほど静かなことがあるだろうか?火事のせいで普段よりもうるさくなりそうなものなのだが…。


「ジャンドさん。余所見はだめですよ?暗いのですからちゃんと前を見て…」


 私が辺りを見回そうとすると、キャサリンから声が掛かる。彼女の声によって私の体はどうも強張るように硬直してしまう。


 何かがおかしい。先ほどからその違和感がどうにも拭えない。


「キャサリン…。道はこっちで合っているのか…?私にはどうにも…」


「心配せずとも問題ありませんよ。…さあ早く」


 キャサリンは足を止める事無く、私を路地の先へと誘う。…しかし、王都にこんな路地はあっただろうか?これでもここらを根城に過ごしてきたのだ。特にハニーグールの拠点がある歓楽街付近は表の道は把握しているし、裏の道も大半は見知っている。


 彼女が誘うこの路地の風景は、どうにも見覚えが無いものだ。脇道もなく、ただひたすら細長い通路が前方へと続いている。


 一つを疑い始めれば、全てが疑わしく思えてくる。見覚えの無いこの小道も、いやに静かなこの夜も、そして私を誘うキャサリンも…。


 私は何を忘れている?私は何を見落とした?どこで何を間違えた?


「間違いですか?…ジャンドさんは悔いているのでしょうか?」


「…私は、口に出していたか?」


 彼女が見返すようにして私に顔を傾ける。暗がりのせいで彼女の顔は良く見えないが、それよりも髪に隠れた首元が私の視線をひきつける。…僅かに見える彼女の白い首に、そこに残る赤い跡。


 キャサリンは足を止め、ゆっくりとこちらに向き直る。


 彼女の髪は酷く痛み、肌も荒れている。


「あ…ああ…あ…。キャサリン…何故お前がここにいる…?」


 夏の夜の空気は熱を孕み、それでいて私の体を蝕む寒気を際立たせる。何故、何故私は忘れていたのだろうか?


 トラガーテが彼女に教えたのだ。私が故意に彼女の恋人を嵌めたことも。その恋人が結局、鉱山送りとなったことも。そして、故郷から寄り添い、借金の肩代わりをしてまで守った男が既に居ないことを、そこまでして奪い取った彼女を私が捨てたことを、トラガーテは楽しむように彼女に打ち明けたのだ。


 そうして彼女は病んだ。もう何者も信じられぬと自身をその手にかけた。彼女の首に残る跡をつけたのは客でもトラガーテでもない。彼女自身だ。…それともあるいは私か。


 彼女を見つけたのは私だ。彼女の所属する娼館で、別の女と寝た翌日。ふと気になって寮を訪ねて見つけたのだ。天井の梁からぶら下る彼女を。


 何故忘れていた?何故彼女がここにいる?


「ほら、ジャンド…こっちを見て…」


 宵の闇より昏い笑みを浮かべて、彼女が私に相対する。またどこかで猫が鳴いた。



「ナナ。残念ながらここまでだな。多分、こっから先は洒落にならない」


 俺は傍らにいるナナを引き止め、ゆっくりと前方を探る。花妖精のタータや妖精猫アルヴィナが何をするのか確かめに歓楽街まで足を運んだのだが、どうやら一般公開はしていないようだ。


「メルルさんも気をつけてください…!は、離れないで下さいね…!」


 俺と同様に、種族的にが高いタルテがメルルの裾を掴んで引き止める。ナナとメルルは何が起きているのか分かっていないようだが、俺とタルテの反応を見て異常事態であると認識しているようだ。


「ハルト。どういうこと?何か起きてるの?」


「…あの辺り、妙に人気が無いところがあるだろ?ナナには何が見えている?」


 俺は前方にある歓楽街の一角を指差す。人通りの多い歓楽街だというのに、なぜかその付近には人気が少ない。あたかも人々が無意識にそこを避けているかのように…。


「何って…、特に何も見えないよ?」


「私も同じですわね。強いて言えば…建物?酒場と料亭でしょうか?」


 ナナとメルルが答える。俺にも同じように見えるし、タルテも否定しないところ同じものが見えているのだろう。


「ああ、俺にも同じものが見えている。…だが、周囲の風を探るとあそこに路地がないと説明がつかない風の流れがあるんだよ…」


 それでいて路地があるところを風で探ると壁としか判別ができない。間接的に調査すれば路地があるのに、直接見ると何も無い。


「…皆さん…これを見てください…」


 タルテが解体用のナイフを取り出し、僅かに鯉口を切って刀身を覗かせる。鏡のように磨かれた刀身には俺が指摘した街角が映し出されている。


「嘘…、道があるってこと…!?」


 ナナが驚愕したようにしながら、刀身に映る鏡像と実際の風景を見比べる。刀身には奥へと伸びる薄暗い路地が確りと映し出されている。


「幻影…にしては妙に認識がずれますわね。強く意識しないと路地があることを忘れそうですわ」


「これって妖精郷と似たようなことが起きているって事?」


「た、多分そうです…!妖精猫アルヴィナやタータ以外にも集まってます…!」


 妖精や精霊は環境が行使した魔法の一種だ。逆に言えば大量の妖精や精霊が集まれば、環境へと影響をする。妖精の小路もその一種であるし、妖精郷も大量の妖精が集まって作り出した別世界のことだ。


 正直言って対策もなしに踏み入れて帰れる保障はどこにも無い。まさかこんな街中にこんな危険地帯が形成されているとは完全に想定外だ。


「個人主義の妖精が妖精猫アルヴィナやタータを切欠に集まるとは思えないが…、他になにが…」


 比較的、花妖精なんかは仲間意識があるらしいがこんな都会に花妖精が集うとは思えない。何が起きているのかと考察を垂れ流すが、唐突に鏡像の風景に変化があって俺は口を噤む。


 鏡の中に映る路地。その路地から一人の男が表通りに這い出してこようとしている。


 茶髪にラインの入った刈上げ。見覚えのあるその顔は、先日寝室にお邪魔したばかりのトラガーテだ。そして、地を這うトラガーテの後ろに控える幾人もの女の影。


 女などでは無いだろう。だが、もしかしたら女なのかもしれない。彼女達は枯れ枝のような手を伸ばすと、トラガーテの足を掴み路地の奥へと引き摺っていく。トラガーテは助けを叫ぶかのような顔を浮かべているが、こちらには物音の一つも届かない。


 女たちはケタケタと笑いながらトラガーテをそのまま路地の奥へと引き摺り、暗がりの中へと消えていった。おぞましい光景を見た俺らは、暫くの間、無言で様子を見守った。


「そういえば居たな。歓楽街にいてもおかしくない妖精が。…普通はそうなる前に教会が手を打つんだろうが…」


「…あの分だけ…悲しみがあったんですね…」


 彼女達が産まれる土壌があって、妖精猫アルヴィナやタータが焚きつけたのだろう。悲しき無念の、亡霊のような妖精たちを…。



泣き女バンシー…。キャサリン…お前…」


 私は一歩後ろに後ずさる。こんなときになって娼館を開いた際に教会から言われた小言を想いだした。女達の無念は泣き女バンシーを産み落とすから注意しろと…。


「あら、どこに行くつもりですか?あなたの進む道はこちらですよ?」


 彼女の髪が漂うように広がり、その恐ろしい相貌と、首に残された私の罪の証が露になる。私は真っ直ぐに見詰めることが怖くなり、彼女から視線を逸らした。


「わ、わた、私を…こ、殺すつもりか…!?」


「何を言っているんです?あなたが私に道案内を頼んだんじゃないですか。振り向いちゃだめですよ」


 彼女が私に一歩近づく。それに合わせるように私は二歩後退した。


「ほら、こっちを見て。あなたが進むのはこちらなんですから」


 顔を伏せた私には、彼女がどんな顔をして喋っているかはわからない。


 ただただ、恐ろしい。恐怖で手足が強張って上手く動かすことができない。


「こ、殺すつもりがないなら…!消えてしまえ…!私は…し、死ぬつもりは無い!!」


 下唇を噛み、その痛みで心を奮い立たせる。そして、恐怖心を掻き消すようにして腹から声を出した。一度克服してしまえば、金縛りにあっていたような体にも力が入る。


 震える足で強引に踵を返し、私は彼女から離れるように今来た道を引き返した。


「ああ…やっぱり…ジャンドさんは…私を見てくれないんですね…」


 振り返る直前、目の端に映ったキャサリンの顔は酷く悲しげであった。ああ。トラガーテにあてがったときも、そんな顔をしていたな。


「旦那…やっちまったな…」


 振り返った小路の奥から、傭兵崩れの声がする。前方の闇の中から聞こえるような、耳元で聞こえるような…。


「子供でも、誰でも知ってる。みんな童話で学ぶんだ。妖精の小路では、…振り返ってはいけない」


 もう猫は鳴き止んだ。女だけが泣いている。


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