第224話 猫はまだどこかで鳴いている
◇猫はまだどこかで鳴いている◇
「お、おい…!焦げてないで返事をしてくれよ…」
つま先で傭兵崩れをつつくが、彼はもう動くことは無い。咄嗟のことではっきりとは覚えていなかったが、背後に熱を感じた瞬間、この傭兵崩れは私に覆い被さってきたような気もする。
彼は契約の範囲内のことしかしたがらない使いづらい男であった。契約の内容の一つは有事における私の身辺警護。…彼は契約だけは守ろうとする男であった。
「ああ…。火の手が…」
壁に手を当て、建物の外へと足を運ぶ。爆風で吹き飛ばされたときに傷口が開いたのだろう。額からは血が流れ出て、頭が軋むように痛む。
幸いにして、火の回りはそこまで早くは無い。充満し始める煙から逃げるようにして先へと進む。事務所の前を通り過ぎる際に、どこかにいるはずのトラガーテが気にはなったが、未だに姿を見ないということは既に逃げているのか、…あるいはもう妖精に…。
「なんとしても…生き延びてやるぞ…」
煙のせいで視界がぼやける。呼吸も苦しければ頭も痛い。だが、背後の炎のように私の心には生への執着が燃え上がっている。普段と状態と比べて、倍近い時間を掛けながら、私は外に通じる扉へとたどり着いた。
私は新鮮な空気を求めて、飛び掛るように扉に取り付いた。…しかし、なぜだか扉は軋むばかりで一向に開く気配が無い。
「おい…!なんで…開かないんだ…!!」
体当たりを繰り返すが、扉は一向に開かない。歪んだ扉の隙間から見える僅かな外の景色が逆に恨めしい。
空気が足りず、私は咳き込むようにして蹲った。まだだ…私はまだこんな所で終わっていい人間ではない…。
訴えかけるように私は扉を叩く…。頭は朦朧とし、正常に考えることができない…。
「…誰かそこにいるんですか?」
そんな声が外から聞こえてきたのは、握る拳にも力が入らなくなってきた頃合だった。
「ま、待って下さいね…!いまつっかえ棒をどかします!」
「頼む!早く…!早く開けてくれ!」
私は伏せていた顔を勢い良く持ち上げる。そして、焦るようにして再び扉に寄りかかるように取り付いた。
「キャッ…!?ジャ、ジャンドさん?何があったんです?他の人は!?」
外に転がり出るようにして私は飛び出した。勢い良く飛び出した外にいた人間は、不安そうな顔で仰向けになる私を見詰めている。
「…キャ、キャサリンか……」
そこにいたのは馴染みの娼婦の一人だ。煙で頭が朦朧としていたため、名前を思い出すのに少しばかり時間が掛かってしまった。やはり、まだ私に運は向いている。彼女はたまたま今夜の伽としてトラガーテに呼び出されてここまで来たのだろう。彼女が来なければ私は焼け死んでいた。
「ト、トラガーテはいない…!おい…!娼館まで…案内しろ…!」
「え?ええ、いいですけど…厄介事ですか…?」
もともと彼女はトラガーテに嫌々尽くしているようなタイプだ。私が許可したとえ言えば彼女としては否応はないだろう。
…私は仰向けの状態からゆっくりと立ち上がる。すでに火の手は外からも分かるほど燃え盛っている。時間がたてば消火のための人員が集まってくる。ともすれば、火災の原因の究明だのと理由をつけて拘束される可能性だってあるのだ。今は、なるべく早くこの場から離れなければ…。
この拠点は全て燃えてしまうだろうが、再起に必要なものは全て私の隠し拠点に備わっている。構成員も外に出ているため火災に巻き込まれる可能性も無いだろう。強いて言えばトラガーテの安否が不明だが、これを機に私をトップに据えた組織に再構成することだってできる。
「ジャンドさん…?大丈夫ですか?早く行かないと火が…」
「あ、ああ。すまん。今行く…」
キャサリンが路地裏へと続く道の前に立って、振り返るようにして私のことを見詰めていた。ついこれからのことに考えを巡らせてしまっていたが、今はこの場から対比し、身を潜めるのが優先だ。私はキャサリンの後に続いて路地へと足を進める。
暗い路地裏ではあるが、彼女も慣れた物なのか先陣を切るようにして迷い無く足を薦めている。こんな時だというのに、彼女の後姿が酷く蠱惑的に見えてしまう。…またどこか遠くで猫が鳴いた。
「火事みたいですけど、もしかして最近流行の煙草から火が出たんですか?あれ、火が危ないんで娼館ではまだ禁止なんですよぉ?」
「余計な詮索はするな。お前はさっさと娼館まで案内すればいいんだよ」
「はいはい。わかりました」
キャサリンは長い付き合いだからか私に軽口を叩く。…思えば金貸しと娼館の二つの商売を提携したのは彼女が始まりでもあった。
彼女はもともと田舎から恋人と共に夢を見て王都に来た人間であった。だが、農家の息子が何の考えも無くやっていけるほど王都は甘くは無い。彼女の恋人は物の見事に失敗して借金を重ねた。
そして債務者は返済の充てが無い男ではなく、田舎娘にしては見目の良い彼女へと返済を催促し、娼館へと斡旋したのだ。
…そして、その時の借金取りが私だ。彼女のことがあったからこそ、娼館の経営に手を広げることを思いついたのだ。
「ぐぬっ…!?」
「あれ?どうかしました?」
不意に頭が強く痛んだ。…既に煙から逃れたはずなのだが、なぜだか未だに頭の中に靄がかかったように朦朧としてくる。なにか。なにか重要なことを忘れているような気がする。
目線を前に向ければ、キャサリンの後姿がある。念入りに油で手入れされた彼女の髪が、夜風の中で揺れている。
髪が揺れ、彼女のうなじの肌色が僅かに顔を出すたびに何故だか疼くように頭が痛む。なにか。なにかを私は忘れている。
「怪我してるんですか?それなら尚更娼館に行って治療しませんとね。ほら、振り返らずにさっさと行きましょう」
「…あ、ああ。そうだな。今ならあの女もいるしな…」
先日仕入れた光魔法使いの女。筋肉質な女なので客は取らせていないが、治療のために長らく使うつもりだ。あの女は全員治せば出て行けるように思っているが、患者がいなくなることなど無いのだから契約は終わることは無い。
コツコツと、彼女の履いている靴が石畳に触れて音が鳴る。何故だか彼女の後姿が無性に気になる。
忘れている忘れている。私は彼女の何かを忘れている。
彼女は、いわゆる昔の女だ。田舎娘にしては身目が良く、あんな男には不釣合いだと男を嵌めて彼女から手を引かせた。
そして娼婦に落としたが、半分は私の愛人みたいなものだった。そうやってしょっちゅう私が呼び出すものだから、トラガーテの目にも留まり彼の相手もすることとなった。あんなクソガキに渡すのも癪だったが、しょせんは遊びの女だ。それでトラガーテ機嫌が取れるならばと、二つ返事で渡してやった。
あの時、キャサリンはなんて言っていたか…。嫌がっていたんだったか…?トラガーテは良く女に暴力を振るう。彼女もそれを恐れて泣いていたんだったか…?ああ、またどこかで猫が鳴いている。
「どうしたんですか?歩くのが遅くなってますよ?」
こちらを振り返らずに彼女が言う。揺れた彼女の髪の間から、首についた赤い跡が見えた。酷く心がざわつく。客がつけたキスマークだろうか?それともトラガーテの暴力の跡?
何か忘れている。頭が痛い。…ああ、そうか。彼女の最初の男のことだったか?あいつはまた結局私から借金をこさえた。今度は私が嵌めたのではなく、ギャンブルに溺れた自業自得だ。最初はキャサリンを買い戻すと息巻いていたが哀れなものだ。債権は鉱山経営者に売り飛ばしたから、もう生きてはいないだろう。
…いや違う。忘れているのはその事ではない。なにかもっと重要なことを忘れている。
猫はまだどこかで鳴いている。
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