第179話 蠢く湧水の森

◇蠢く湧水の森◇


「おい、ネイヴィルス。休んでないでちゃんと見張ってくれ」


 私は視界の端で捕らえたネイヴィルスに小言を言う。ネイヴィルスは地面に座り込んで暇そうにしているが、今は別に休憩時間ではない。野営地の夜警、それも外周部を見張る立哨だ。…座り込んだら立哨にならんだろうが…。視界を少しでも確保するために立って警戒するんだぞ?


「んだよホフマン。おめぇは俺の母ちゃんかっての…。相変わらず堅苦しい奴だな…」


 説明すれば、ネイヴィルスはいやいやながらも立ち上がって周囲を見渡す。…粗雑な印象のネイヴィルスだが、これまでの付き合いで単なる馬鹿ではないことは解かっている。


 ちゃんと説明して理解するように言って聞かせれば、自己の行いを改めることのできる男だ。だが如何せん、裏を読むことをせず手元にある情報だけで都合の良いように判断することが多いのだ。言ってしまえば馬鹿というより、無知といったほうが正しい表現なのだろう。


 以前にも学院内は身分が関係ないという情報を聞いて、都合の良いように判断し貴族に食って掛かっていたが、その学則が礼儀作法を知らない平民が粗相しても見せしめのためにわざわざ罰しなくても済むようにあると噛み砕いて教えてあげれば、気には食わないようであったがそれ以降の行動を改めてくれた。


 そうやって様々なことを教えてあげたからだろうか、最近のネイヴィルスは注意をすれば嫌々ながらも従ってくれる。それどころか良く解からないことがあれば私を頼りにし、行動に起こす前に尋ねてくることも多くなった。


 野蛮で適当な男だが、決して悪い奴ではない。コイツの引き起こす面倒ごとの対処と釣り合いが取れるかというと甚だ疑問ではあるが、付き合っていてそれなりには楽しい男だ。


 …その時、少し地面が揺れた気がした。そして耳にも何かが爆ぜたような音が聞こえたような気がした。


「…聞こえたか?」


 ネイヴィルスの声が私の耳に届く。普段とは違う冷淡な色がその声には込められている気がした。


「気のせいでは無かったようだな…。おい!そっちは聞こえたか!」


 私は離れた位置で私達と同じように立哨をしている学生に声を投げかけた。


「こっちも聞こえた!今一人を伝令に向かわせる!」


 彼は私の声に答えると、相方をすぐさま伝令に走らせた。野営地の方でも聞こえた者が居たのか、寝静まっているはずの野営地が僅かに騒がしくなっている。


「ホフマンよぉ、浮き足立つなよ。お前が言ってたじゃねぇか。兵士はまず自身の任務を完遂するもんなんだろ?…俺らはいま立哨だ」


「あぁ、そうだな。その通りだ。…感謝する」


 ネイヴィルスの声に私の心が冷静さを取り戻す。悔しいが、ネイヴィルスの方が鉄火場には慣れているようで、こういうときには頼りになる。


 息を吐きながら気を落ち着かせ、前方の森の中をつぶさに観察する。


 その途端、直ぐ近くの繁みが僅かに揺れて、腰の辺りから背中に目掛けて氷柱を差し込まれたように寒気が駆け上る。


「なにか来たぞ…!?」


「これは…んだよ。土蟲じゃねぇか…」


 私の警戒とは魔逆に、ネイヴィルスは呆れた声を出す。繁みから現れたのは人の頭ほどの大きさの虫だ。何枚もの甲殻が重なったような姿で、その甲殻の下では細い幾本もの足が蠢いている。


「見たこと無いのか?こんなもん警戒するようなもんじゃねぇぜ…?」


 ネイヴィルスは剣を抜く事無く、そのまま土蟲と呼ばれた虫を体重をかけて踏み潰した。土蟲はギィギィと気味の悪い声を上げたものの、桃色の体液を滲ませながら痙攣した後、そのまま動かなくなった。


「…ネイヴィルス。魔物避けの香はまだ残っているか?」


「ん?ああ…、まだ煙は上げてるぜ。残りからみて…あと半刻だな。んだよ。もしかしてさっき大目玉食らった奴と同じことしてると思ったのか?」


 ネイヴィルスが言ったのは、日没直後あたりに野営地で響き渡った怒号の件だろう。今日、魔物を討伐することができなかった一部の生徒が、自分たちも魔物と戦うために故意に魔物避けのお香を焚かなかったのだ。


 もちろん、野営地のそこらじゅうで焚かれているので一箇所で焚かれなかったところで何も変わらないのだが、自身の利益のために全体を危険に晒したとして演習中でありながら謹慎処分を受けることとなったのだ。


「いや、故意に魔物避けを抜いたとは思わないが、切れてしまっているのかと面ってな…」


「そもそも、土蟲には魔物避けは効かないんじゃないのか?…つーか、確かこいつらがそれの素材だったはずだぞ?」


 そう言ってネイヴィルスは自身が踏み潰した土蟲の死体を顎で示す。確かに潰れた土蟲から滲み出る体液は魔物避けの香と似たような桃色をしている。よくよく注意して臭いを嗅いでみれば、確かに臭いも似通っている。


「田舎じゃいい小遣い稼ぎなんだよ。そいつらは死体を食うだけで生きてる奴らを襲わないし、何より子供が殺せるほど弱い。んで、倒した奴は魔物避けになるからそこそこの値で売れるんだ」


 自身もそうやって金を稼いだ経験があるのか、ネイヴィルスは得意げにそう語った。その語り口に、私の背中に宛がわれた氷柱がゆっくりと解けていく。


「あー、でも土蟲の卵は注意しろって言われてたな。見つけても絶対持ち帰るなって…」


「んん?そういえばご禁制の品物のリストでその単語を見た記憶があるな…」


 兵士科の資料室には街兵が把握しておくべき情報としてご禁制のリストなんかも用意されていた。確かその中で土蟲の卵という言葉が書かれていた記憶がある。


「なんだっけかな。確か下手するとやたら増えるらしい。土蟲なんて増えたところでなんともないんだろうが…。なんで禁制品なんだ?」


「すまんが、そこは私も把握していないな。…ハルト君だったら知っているかな。彼は魔性生物学の授業でここに来ているはずだ」


「クソ…!何が授業だ…!あの野郎、見せ付けるように女とつるみやがって…」


 一気にネイヴィルスの機嫌が悪くなる。確かに彼は常にタルテさんと一緒にいる。小さな身体で武勇を秘める彼女とにこやかに笑っている姿を見ると、私も少しばかり思うところがある。


 そればかりか、兵士科の中でも密かに人気の出ているナナリア嬢も彼と関係があると噂されている。政務科との共通の授業でしか会うことの無い彼女ではあるが、兵士科顔負けの実力を示す彼女は、その火傷痕も相まって非常に目立つ存在だ。


 男所帯の兵士科の中では彼女に憧れる者も数多い。なにより、彼女は貴族関係者でありながら貴族界隈で敬遠される顔の傷があるため、自分たちでもチャンスがあるのではないかと思う者が多いのだ。


「おい…!聞いてんのか…!」


 唐突なネイヴィルスの声に私の意識は唐突に現実に引き戻される。彼に注意しておきながら、自分自身も注意散漫になっていたことに気が付いた。


「すまない…!少し呆けていた…!」


「おいおい。頼むぜ…。それよりも、何か来るぞ!早く剣を構えろ!」


 そう言ってネイヴィルスは剣を鞘から抜き放った。私も慌てて剣を抜き、前方の森に目を凝らす。ネイヴィルスは何に感づいたのか…。その何かは直ぐにでも理解することができた。


 森が騒がしいのだ。先ほどまでは風が吹いていたときにだけ鳴っていた木々のざわめきが、今では大風の晩のように鳴り響いている。


「これは、なんだ?何が起こってる?」


「俺が知るかよ!ただな、単なる獣じゃねぇぞ…!音が聞こえる範囲が広すぎる…!森全体でなっているみてぇだ…!」


 木々や草のざわめきと私の唾を飲み込む音。私とネイヴィルスは見定めるように森を見詰める。


 月明かりに照らされた森であっても、木々の暗がりははっきりと見通せない。そんな視界の先の暗がりで、まるで激流のように森の地面が蠢いた。


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