第2話
「はあ――っ……!」
ジョッキに勢いよく口をつけ、黄金の液体を喉の奥へ滑らせる。キレのいい苦味が脳にまで突き抜けた。指先までぴりぴりと
「やっぱりビールは最高ーっ!」
ドン、とほとんど空になったジョッキを古びたカウンターに置く。隣からの呆れ半分、感心半分の視線が突き刺さった。
「すげー飲みっぷり……」
「あんな場面を見せられて、飲まずにやってられるかって思いません?」
「まあ、そっか」
大河さんに譲と呼ばれていたひとが、口数少なくうなずいてきゅうりの一本漬けに手を伸ばした。ぽりぽりと
そう、あれからわたしたちは流れで飲みにいくことになったのである。
「そういえば自己紹介もまだでしたよね。わたし、
「
「うるさい」
自虐にも
なんせ、ついさっき恋人であったはずの大河さんの二股現場に
「ああでもやっと間瀬さんが『女神』って言った理由がわかった。てっきり、女神も真っ青な美人っていう意味かと……」
「わたしをじろじろ見て笑うのは、やめてくれません? 失礼ですよ」
もさーっとした男性が喉の奥でくつくつと笑う。そうすると、目がきゅっと細くなってうっすら可愛げが……あるわけない。
わかってます。大河さんに肩を抱かれていた女性に比べたら、わたしなんて女神どころか金魚ですよ。違うな、金魚にも失礼だった。
だいたい、普段はこんなふわふわ可愛い系のパステルカラーの服装なんてしてないし。髪だって職場では巻いてないし。体育会系ばかりの営業部にいたら、身につくのは可愛げよりガッツですよ。
「女神は
「職場か……ふうん」
大将が目の前にねぎまとハツの並んだ皿を置く。わたしはハツにかぶりつき、隣を横目でじろりと見返した。
「それで、そちら様は……」
「
「え、同じ会社?
「そ。つくば事業所勤務」
立倉デジタルソリューションズは複合機、パソコン周り、サーバー、ネットワーク関連などオフィス機器の製造とサービス事業を手がける会社だ。
一般消費者向けのプリンターで有名だが、売上で見ると主力は業務用機器である。プリンターを使ったことのあるひとなら、名前くらいは知っているのではないだろうか。
ともあれ、まさかおなじ会社の同僚とは思わなかった。二十七ってことは、わたしより二歳上か。
設計部とは打ち合わせをしたこともあるからか、一気に親近感が湧いた。
「わたしは本社勤務。営業本部産業第一事業部所属です。間瀬さんの後輩で。苑田さんは間瀬さんとは……」
「前に一緒に客先に行った。あのひと、つくば事業所にもちょくちょく来るから」
「あー、そうですか」
と和やかになりかけたが、わたしははたと気づいて青ざめた。
「苑田さん、あの。わたしたちが付き合ってたことは秘密厳守でお願いします!」
「もう関係なくない?」
「傷口に塩を塗って手でこするのはやめてください」
残りのビールを
「間瀬さん、『事業所荒らし』で有名だよ。甘くて色気のある顔だから、事業所の女子も一発でなびくって噂。つっても、本社勤務なら知らなくてもふしぎじゃないか。おなじ職場の女には手を出さないみたいだったんだけど、お気の毒さま。女神さんもあの顔にころっとなびいたクチ?」
トゲのある言いかただな。ひとが失恋直後だっていうのに追い討ちかけなくてもよくない? シンプルに言って感じが悪いのでは。
むっとしてしまい、大将にビールを急かした。バイトの女の子が元気のよい返事とともにジョッキを持ってきてくれ、わたしはぐいっとジョッキを傾ける。
「顔に惹かれて付き合ってたわけじゃないし。……わたし、不運体質だから」
「は?」
「不運体質。昔っからそう。ここぞっていうときほど、不運に襲われるの。言っておくけど、頑張りが空回りするっていう意味じゃないからね。自分の失敗ならまだ注意のしようもあるけど」
「……たとえば?」
あれ、聞いてくれる気があるんだ。意外かも。わたしは苑田さんの横顔をうかがったが、ただの興味本位というわけでもなさそうだ。
「たとえば、お客様への提案があるでしょ? 大口だと購買担当だけじゃなくて執行役のかたとかも出席するのね。そういう大事なプレゼンの日に限って、線路に犬が立ち入ったとかで電車が遅延するわけ」
「それ、別に誰でもありそうだけど」
「と思うでしょ? そこまでならわたしもそう思う。人間誰しも、こんなときに限ってって思う日はあるよね。でもわたしはそこで終わらないわけ」
相手が会社の先輩だというのもいつのまにか忘れ、わたしはタメ口で続ける。
「しかたないからタクシーで行こうとして駅を出るでしょ。で、タクシーに乗りこもうとした瞬間に、プレゼン資料一式が入ったショルダーバッグをひったくられたの」
あ、と思ったときには遅かった。いつのまにか背後から近づかれた男性にバッグを盗られたのだ。
「パンプスで全力疾走したけど、見事に逃げられてね。スマホは無事だったから、すぐ警察には通報したけど、お客様から預かっていた資料も盗られたから情報
プレゼン機会を失うどころか、客先訪問は謝罪目的になり。もちろん、会社に戻ったあとは始末書を書くはめになり……。
「せっかくの大口顧客だったのに、どの口で買ってくださいって言えるのかっていう感じで」
「
「でしょ。たまたまこの一回だけ、じゃないからね、万事がそんな感じなの。キメどきに限って不運が襲ってくる」
「うわ……」
苑田さんが絶句する。
ドン引きの顔では。とちらっと思ったけれど、口には出さずに置く。
「その資料はなんとか戻ってきて、間瀬さんが改めて客先に訪問して経緯の報告と謝罪をしてくれたのね。上司にはわたしは行くなって言われて」
「当然だろうな。でもまあ資料だけでも戻ってよかったな」
そうなのだ。財布は抜かれたがクレジットカードはすぐに停止したので、盗られたのは現金五千六百円だけですんだ。たぶん、不幸中のさいわい。
「でもまだ先があってね。取り戻したお客様の資料の中になぜか社長のお孫さんのクリスマスプレゼントのリクエストの手紙が入ってて。社長も知らなかったらしくて、おかげですごく感謝されて、その場で間瀬さんがプレゼンのやり直しをさせてもらえて、見事成約……っていうオチ付き」
「結果オーライか」
「そう、あの日プレゼンに行ってなかったら、次の訪問はクリスマス後になってたはずだから……」
プレゼン相手は社長ではなかったので、仮にプレゼンを予定どおり行って資料を返したとしても、おそらくその可愛い手紙はろくにたしかめられもせず捨てられた可能性が高かったと思う。ひったくりに遭ったからこそ、社長の面会にまで繋がったのだから。
「成約できたのは、間瀬さんがフォローしてくれたおかげだし。ほかにも、いつもフォローしてくれてね。だから、いい先輩で……いいなって思ってたら間瀬さんのほうから付き合うかって言ってくれて……恋愛もこの体質だからこれまで上手くいったことなかったし、やっと人並みになれた気がしてたんだよ……」
最初の勢いはどこへやら、わたしはビールのジョッキから手を離さずくだを巻く。
恋愛だって、そうだった。頑張ったときに限って、なにかしらよくないことが起きる。そのせいで、すっかり自分からいくのに臆病になってしまった。
だから間瀬さんとのお付き合いは、久々のまともな恋愛だったのだ。ふり返ってみればぜんぜんまともじゃなかったけれど。
でも正直なところ、頭の隅では不運が降りかかるのを予感していた部分はある。
久しぶりのデート、気合いを入れたファッション。フラグとしてはあまりにベタだった。
「けど、まさか二股だったなんて知らないし……」
「ご愁傷様」
「心がこもってない! ていうか、苑田さんも間瀬さんと変わんないと思う。『譲られます』は、軽すぎない? さすが間瀬さんと親しいだけある」
意地の悪い感想に対抗するつもりで、いじけた返答を返す。わたしは物じゃないからね。返品・譲渡不可……のはずだったんだけどな。
苑田さんは気を悪くした様子もなく、むしろばつの悪そうな顔でつくねを生卵に絡める。
「いや……俺もどっちかっていうとそういう性質持ちでさ」
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