不運の女神、譲られました

白瀬あお

一章 女神は不運体質です

第1話

 服よし、髪型よし、メイクも……素材が素材にしてはよし。下着……めくるめく展開になってもよし。

 クラシカルなホテルのレストルームで、鏡越しに頭のてっぺんからつま先までめるように最終確認して三十分。ようやくわたしはすべてにOKを出し、レストルームを出る。

 クリーム色のパンプスを鳴らして平日のわりに客の多いラウンジの横を通り、エレベーターに乗る。最上階のブタンを押して壁にもたれると、鼓動が速まった。

 なにを隠そう、久しぶりのデートだ。前回が一月の終わりで、今日がホワイトデーだから……ひと月以上は経っている。とはいっても、会社ではしょっちゅう顔を合わせているけれど。

 なにしろ職場恋愛なのでいろいろと気を遣う。職場には内緒にしているので、なおさら。

 予約は18時半。ふたたび時間を確認しようとスマホを取りだすと、大河たいがさんからメッセージがきていた。


【まだ客先。先食ってて】


 そう言われても今日は大河さんの誕生日でもあるのだから、待つの一択だ。


【わたしもまだお腹空いてないので、待ってますね】


 返信してスマホをバッグに仕舞うと、ポン、と控えめな音を立ててエレベーターが途中階で開いた。

 停まったのは宴会フロアらしい。喧噪けんそうが広がって、何人かフォーマルな服装の人々が乗ってくる。誰もが、ホテルのロゴの入った紙袋を手にげている。十人ほど乗りこんできて、エレベーターはあっというまに満員になった。

 結婚披露宴が終わったところらしい。上に向かうということは、二次会が上で行われるのか、それともこのまま宿泊コースかも。

 なんて、微笑ましく眺めたわたしは次の瞬間、ぎょっとした。


「降ります! すみません、降ります!」


 閉まりかけた扉の「開く」ボタンを連打し、扉近くの乗客に頭を下げながら体をねじこませる。どうにかエレベーターから降り、わたしはふらふらと披露宴会場のほうへ足を向けた。

 うそ。こんなところにいるわけない。だって、客先だって言ってたし。

 もしかしてあれ? その、肩を抱いてる女性が客先のひとっていうオチ?

 心の声がそうだそうだ、あれは客だ、と説明をつけようとする。なのに脈が乱れ、息が浅くなっていく。そのくせ足は、たしかめろとでもいうかのようにわたしを急き立てる。


「大河さん……」


 大河さんがふり返った。相変わらず甘い顔のイケメンだし目が色っぽいな、なんて思う暇もない。大河さんは、髪をハーフアップにした女性の肩を抱いていたのだから。

 大河さんは普段どおりのスーツ姿なのに対して、女性のほうは薄いピンクのシフォンワンピース。披露宴に出席していたのは女性だけみたいだ。ということは、考えたくないけど、女性を迎えにきた……とか?


直央なお、なんでこんなところにいるんだよ」

「なんでって、大河さんこそどうして……客先だから遅れるって言ってたじゃないですか。もしかしてこの方がお客様ですか?」


 ぱっちりとした二重の目が印象的な清楚系美女がくすりと笑う。隣で大河さんも失笑した。


「これが客に見えんの? めでたい頭してんな、直央は。こいつ、俺の彼女」

「彼女? え、なんで」

「なんでって付き合ってるし?」


 動揺する素振りさえ見せずに、大河さんが平然と応じる。


「でもわたしたち付き合ってますよね? 今日だってデートの約束してたじゃないですか」


 だからわたし、今日はお気に入りのフレアスカートを穿いて、下着だって新しいのを下ろしたんですけど。総レースのやつ。


「まあでも、今日はこっちの気分だったんだよ。お前、つまんねーし」


 大河さんが清楚系美女を抱き寄せると、美女はふふ、と可愛く笑った。

 なにその余裕ぶった笑い。……頭が痛くなってきた。胃もむかむかするし、なんなのこれ。なんなのこれ!


「つーわけで、食事はひとりで行けよ。いや、俺らで使うか。はるか、二次会なんかキャンセルしろよ。最上階のレストラン、こいつ予約してくれてっから」

「ほんと? 行きたい」


 大河さんと遙と呼ばれた美女がわたしの横を通りすぎようとする。わたしは大河さんの腕を引っつかんだ。


「待ってください! 話は終わってません。今日は大河さんの誕生日じゃないですか。だからわたし、お祝いするつもりで……っ」

「あー、うん、ここまで言ってもわかんない?」


 だるそうに顔をゆがめた大河さんは、わたしの腕をあっさりと引き剥がすと、わたしが返事をするより先に「おっ」と顔を輝かせた。わたしの肩越しに手招きをする。


「おーい、ゆずる! いいところにいたわ。こっち来いよ」

 エレベーターホールをふり返る。重ための前髪に眠たそうな目をした男性が、大河さんの声に顔を上げたのが見えた。エレベーターが閉まろうとするのを、素早く駆け寄った大河さんがボタンを押して阻止する。譲と呼ばれた、大河さんより若い男性が渋々といった感じでエレベーターを降りた。


間瀬ませさん? 奇遇きぐうですね。なんですか? 俺、家族の用事で来ただけなんですけど」


 眠たそうな男性は、ライトグレーのスーツの首元を緩めていた。ネクタイが曲がっている。用事が終わったから緩めた、というところみたいだけど、あまり見た目に頓着しないタイプのようだ。右手には女性物のハンドバッグ持っていた。


「まあそう言うなって。いいもんやるから。いやマジでお前が来て助かったわ」

「なんなんですか、間瀬さんは……あー、デートですか」


 清楚系美女とわたしを交互に見た男性は、さして興味もなさそうに目を逸らすと戻ろうとする。ところが大河さんが引き留めた。


「譲、お前引きがいいわ。名前もちょうどいいし、お前に女神サマを譲ってやるよ。はいこれ」

「はい!?」


 大河さんに手を引っ張られたと思うまもなく、わたしは男性の前に立たされていた。大河さんの甘いマスクとは違って、全体的にぼさっとした感じのひとだ。

 目つきは鋭いものの、威圧感はない。警戒心の強い猫みたいだな。あ、鼻筋は綺麗。

 あまり表情の変わらないひとのようで、男性はかすかに目を細めただけだ。


「ちょっと、大河さん! 譲るってどういう……」

「だからー、俺はもう要らないって言ってんだって。譲、こいつもらうよな?」


 わたしはその場に固まった。

 心臓を一撃だ。頭が内側から鈍器で叩かれたよう。


「……じゃあ、ありがたく譲られます」

「は……? え?」


 このひとも、無表情でいったいなにを言ってるのかな??

 餌を必死で求める金魚のごとく口をパクパクさせるしかない。


「さっすが譲。お前はそう言うと思ったよ。じゃ、あとは頼んだわ。直央、来週のトキサワ産業向けの資料、明日チェックするから出しとけよー」


 大河さんは清楚系美女とともに、悠々とエレベーターに乗りこんだ。チン、と軽やかな音を立ててエレベーターが閉まる。

 階数表示の数字が次々に上っていっても、わたしはしばらく立ち尽くすだけだった。

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