第1話 教室にて

『大事な話があります。放課後に二年C組教室に来てください』

 そのやけに改まった文面を見た瞬間、うっすら嫌な予感がした。

 だけど――まさか、そんなわけない。頭を振って、僕はその嫌な予感を強引に脳内から消し去る。

 メッセージの送り主は飛鳥井あすかい美羽みう。僕の彼女だ。

 恋人から送られてきたメッセージが悪いものであるはずがない。

 そう信じつつも、このメッセージにどういった意図が込められているのか、僕には見当もつかなかった。

 見当もつかなかったが、なにしろ彼女からの頼みだ。とりあえず行くしかない。

 そういえば、もうすぐ僕たちが付き合い始めて一ヶ月だった気がする。厳密にはその日までまだ一週間あるので無意識に候補から外していたが、当日に何かメモリアルなことをするなら、そろそろ計画し始めてもおかしくない。

 なんだ。もしそうなら心配なんか必要ないじゃないか。仮に違っても、きっと平和なオチに違いない。

 顔を上げると、すでに二年C組の教室前に到着していた。

「だいじょうぶ。だいじょうぶ……」

 何度も自分に言い聞かせてから、僕は教室の扉に手をかける。

 扉を開けると、すでに飛鳥井さんは教室の中にいた。扉の音に反応してスマホから顔を上げた彼女と目が合う。

「……お待たせ」

 少し声が上擦ってしまったかもしれない。だけど、気にせず僕は教室に足を踏み入れる。

 教室に他の生徒はいない。僕と飛鳥井さんの二人きりだ。

「いいえ。来てくれてありがとう」

 飛鳥井さんは朗らかにそう言うと、僕の元へゆっくりと歩み寄ってくる。

 その反応からは文面ほどの深刻さは感じられない。実にフラットな飛鳥井美羽だ。なんだったら、いつもより雰囲気が柔らかいようにすら感じた。

 てっきり別れ話でも切り出されるのではないかと危惧していた僕は、密かに胸をなで下ろす。やっぱり思い過ごしだったようだ。

 心に余裕が出来たせいだろうか、改めて目の前の彼女の美しさに見とれてしまう。

 今日も飛鳥井さんは、ため息が出るほど美しい。

 背中まで伸ばされた艶やかな髪の毛はどこまでも深く黒いのに、その肌は髪の毛と対照的にどこまでも透き通って白く輝いている。アーモンドのような切れ長の目は飛鳥井さんの大人っぽい雰囲気を強調しているし、形の良い唇はプルンとしていて色っぽい。制服から出た手足はモデルのようにスラリと細く長く、触れれば壊れてしまうのではないかと心配になるほどだ。どのパーツを見ても素晴らしく、全体を見てもまるで絵画のように抜群に整っている。

 きっと彼女の容姿の美しさを正確に形容しようとすれば、夜通し語っても時間が足りないだろうと思うほどだった。

「どうかした?」

 長く見とれていたせいだろう、飛鳥井さんは心配そうに首を傾げていた。

「ううん、なんでもない。それより、大事な話って?」

 僕は慌てて取り繕い、本題を促す。

 すると、飛鳥井さんは照れているのか、それとも気まずいことでもあったのか、僕から視線を逸らした。そして目を合わさないまま口を開く。

「少し早いけど、私たち付き合い始めて一ヶ月になるわよね」

「そうだね」

 僕は頷く。やっぱり一ヶ月記念に関係することだったようだ。

 ホッとすると同時に、喜びが溢れてくる。飛鳥井さんも憶えていてくれたんだ。

「思えば、いろんなことをしたわよね。一緒に登校したり、一緒に帰ったり、デートをしたり、夜中に電話を繋いでずっと話したり。どれもすごく楽しかったわ。それで思ったんだけど……」

 飛鳥井さんは一度言葉を切ると、顔を上げ、僕と目線を合わせてからこう続けた。


「私たちもう別れましょう」


「えっ……?」

 ――今、何て言った?

 彼女の言葉は確かに耳に届いたはずなのに、まるで異国の言葉のように耳の中を素通りしてしまった。

 思考が止まる。

 しかしそれも一瞬のことで、飛鳥井さんの言葉を脳が理解した瞬間、今度はまるで脳みそが揺れているかのような感覚が襲ってきた。

 気持ち悪い。地面が揺れる。平衡感覚が狂う。倒れてしまいそう。脳が全力で理解を拒否していた。それほどまでに衝撃的な一言だった。

 ――これが失恋か。

 この日、僕は生まれて初めてできた彼女にフラれた。

「あの、大丈夫?」

 飛鳥井さんが心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。

 彼女だった人の手前、無様な姿は見せられない。近くにあった机を支えにして、僕はなんとか膝を折る前に踏みとどまることができた。

「……ごめん。大丈夫」

 無理やり笑顔を作って答える。

 一度失恋を受け入れてしまえば、なんとか平静を装えた。心の中はぐちゃぐちゃだが、好きだった人の前で醜態を晒すことだけは、僕のプライドが許さなかった。

「そっか……、別れようって話だったよね。…………うん。わかったよ」

 思えば、飛鳥井さんと付き合えたこと自体が奇跡のようなものだったのだ。

 飛鳥井さんは学校一の美人で、かつ頭脳明晰でスポーツ万能の完璧女子。対して僕は、あらゆるスペックが並の凡人。

 それに加えて、なんでも僕の前に付き合っていた歴代の彼氏たちは、野球部のエースや学校一のイケメンなどいずれもハイスペック男子ばかりだったという。

 これは別れを切り出されるのも当然だ。

「ありがとう。それと、ごめんなさい。私のわがままで一方的に……」

 飛鳥井さんは謝っているが、彼女はまったく悪くない。僕なんかが飛鳥井さんの彼氏だったなんて、むしろ今までが異常だったのだ。本来の関係に戻るだけ。

 飛鳥井さんはもう一度「本当にごめんなさい」と申し訳なさそうに謝ると、そそくさと教室を出ていこうとする。

「今まで楽しかったわ。さようなら……」

「ちょっと待って!」

 思わず僕は飛鳥井さんを引き止める。

 しかし、なぜ引き止めたのか。引き止めた本人である僕にもわからなかった。ほとんど無意識の行動だった。

 だけど強いて言うなら、飛鳥井さんの様子がいつもと違う気がした。何か隠しているような。ごまかそうとしているような。

 足を止めた飛鳥井さんに僕は咄嗟に訊ねる。

「どうして別れようと思ったのか。最後にそれだけ訊かせてもらって良いかな?」

 すると飛鳥井さんは、僕からあからさまに目を逸らして呟いた。

「……フラれた理由なんて、聞いて気分のいい話じゃないと思うわよ」

「構わない」

 飛鳥井さんは何か隠している。そう確信した僕は即答する。

 それに、僕が飛鳥井さんに相応しくなかったのは百も承知だ。至らなかったところなど、いくらでもあっただろう。見限られて当然だったと今では思っている。

「……っ」

 僕が即答したのが想定外だったのか、飛鳥井さんは戸惑っているようだった。

「言わずに別れるのが、お互いに遺恨が残らなくて良いと思うのだけど……」

「飛鳥井さんの彼氏として僕が相応しくなかったのは自覚している。だけど僕はそのことを、飛鳥井さんの口から聞きたいんだ。そうでないと逆に諦めきれない。正直に言ってくれて構わないから」

 僕は食い下がるが、飛鳥井さんは苦い顔で首を横に振る。

「……言えないわ」

「どうして?」

「どうしてもよ」

「ちゃんと言ってくれないと諦めきれない」

 飛鳥井さんが別れを切り出したのには何か事情がある。そして、どうやらそれを僕に話したくないようだ。そのことはわかったし、彼女が話したくないなら追及するべきではないのだろう。

 だけど、僕の気持ちの問題として、こんなんじゃ納得できなかった。

 いくらなんでも、あんまりじゃないか。

 僕は飛鳥井さんを強く愛している。そしてその思いは、彼女が付き合ってきた歴代の元カレたちにすら負けないだろうという自負があるくらいだ。

 それなのに、彼女から理由も告げられずに別れを切り出されたのだ。そんなの到底納得できるはずがない。

「僕が彼氏として頼りなかったから?」

「……」

 すがりつくように訊ねるが、飛鳥井さんは黙り込むのみだ。

「僕がイケメンじゃないから?」

「……」

「僕があまり頭良くないから?」

「……」

「僕がお金持ちじゃないから?」

「……」

 どの質問に対しても、一切の反応を返してくれない。

「僕が、元カレたちに比べて見劣りしたから?」

「……っ」

 唯一、その質問にだけ、微かに反応があった。「元カレ」がこの件のネックなのは間違いないだろう。ということは……。

「そっか……。なるほど。そういうことね……」

「わかってくれた?」

 飛鳥井さんの表情が少しだけ明るくなった気がした。

 すかさず僕は言う。


「だったら、もしも僕が飛鳥井さんの元カレを全員倒すことができたら、もう一度僕と付き合ってくれる?」


「えっ……?」

 あまりに予想外な提案だったのだろう、飛鳥井さんの表情が固まった。

 ――これはチャンス。この期を逃してなるものか。

 僕はたたみ掛ける。

「どうなの!?」

 そう言いながら、僕は飛鳥井さんの方へ詰め寄り、判断を迫る。

「ああ、えっと……」

 飛鳥井さんの視線があちこちにさまよう。

 彼女が意外と押しに弱いことを、僕は一ヶ月足らずの交際期間で知っていた。

 そして、勢いに飲まれた彼女が蚊の鳴くような声で「……うん」と言ったのを確認するやいなや、

「言質取ったからね」

 そう言って、僕は教室から走り出る。

 いわゆる言い逃げだ。相手に撤回させる隙を与えてはいけない。冷静になられたら負けだ。その前に約束を取り付けろ。本能がそう訴えていた。

「ちょっ、原田はらだくん? えっ? えぇっ??」

 教室に飛鳥井さんを一人残して、僕は廊下を全速力で駆け抜けた。

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