第7話 出会い

 僕が飛鳥井さんと初めて会ったのは、この学校に転校してきてから一週間くらい経ったある日のことだった。

 その日、僕は放課後に担任の先生から呼び出しを受けていた。

 ただ、呼び出しと言ってもなんてことはない。転校生を気にかけた担任が、「そろそろこの学校に慣れてきたか?」「何かわからないこと、困ったことがあれば遠慮なく相談しろよ」と、通り一遍の言葉をかけてくるアレだ。多分、教員のマニュアルには「転校生が孤独を抱えないよう、こまめに話しかけてあげましょう」と書かれているのだろう。どことなく義務としてやっているように感じた。

 実際、職員室に呼び出された僕は十分もかからず解放された。

 そんなわけで用事自体はすぐに終わったのだけど、待たせるのも悪いので念のため恭平には先に帰ってもらっていた。

 こんなことなら待っておいてもらえば良かったな。そう思いつつ、僕は歩き出す。

 ひとり寂しく下駄箱まで下りていると、グラウンドから声が聞こえてきた。

 運動部の走り込みの声だ。

 それを聞いた瞬間、僕はこの学校の部活動を見学しようと思い立った。とは言っても、これから部に所属しようという気は一切なかった。ただ単純に、これから青春を共にする学校の部活風景というものを見てみたくなったのだ。

 部室の集まったクラブ棟の存在は、事前に担任から聞かされていた。グラウンドを横目にそこを目指す。

 すると、その途中でベンチに腰掛けた一人の女生徒を見つけた。

 女生徒の手には鉛筆が握られており、膝の上にはスケッチボードが乗っている。視線の先には等間隔に植えられた木があり、それを描いているのだろうと推測できた。

 彼女の座っている位置は丁度、僕がクラブ棟へ行くための動線上にあった。クラブ棟へ向かうなら、どうしてもあそこを通る必要がある。

 スケッチをしているなら邪魔をしてはいけない。僕はなるべく音を立てずに女生徒の後ろを通り抜ける。

 女生徒の真後ろに来た瞬間に、ちょっとした興味が湧いて、僕は彼女のスケッチを盗み見た。

「……っう」

 思わず声が出そうになり、慌てて口を押さえる。

 彼女の絵は素人の僕でもわかるくらいに素晴らしく、まるで目の前にある風景をそのまま切り取って貼り付けたようだった。それでいて、彼女の絵にはどこか惹かれる不思議な魅力があった。鉛筆だけでこれだけの絵が描けるなんて、きっと彼女は天才に違いない。僕は本気でそう思った。

 サッと盗み見て通り過ぎるつもりだった僕だったが、気付いたときには立ち止まって絵に見入ってしまっていた。

 僕の存在に気付いた女生徒が首だけで振り返る。

「ねえ、そんなに見られてると描きにくいんだけど……」

 振り返った彼女と目が合い、僕は息をのむ。彼女の顔はとても美しかった。

 目鼻立ちは彼が今までに出会ったどんな女の子よりもはっきりとしていて、纏う空気はまるで違う世界の人間なのではないかとするほどに光り輝いていた。

 彼女の美しさを知覚した瞬間、僕は恋に落ちた。

「……ねえ、聞いてる?」

「ああ、ごめんなさい」

 思わず見とれてしまっていた。対照的に、彼女は嫌悪感の少し混ざったような瞳で僕を見ていることに気付いた。

 焦って取り繕う。

「通り過ぎるつもりだったんだけど、あまりに上手な絵だったからつい……」

「そうなの。ありがとう」

 そう言って彼女はほほえむ。ただし、目だけは「早くあっち行け」と訴えていた。

 彼女がスケッチを再開したがっていることには気付いているが、僕はなんだかこの場を離れたくなかった。なんとかして会話を続けられないものかと頭を回転させる。

「す、凄く上手だね。まるで写真みたいだ」

「そうね。でも、私の絵なんて精々、写真の劣化よ。情景をそのまま残したいなら、絵なんか描くよりも写真を撮った方が早いし精確だと思わない?」

 咄嗟に出した賞賛は、にべもなくあしらわれた。

 だが、それでも僕は引き下がらない。惚れた女の子ともっと話していたいからというのもあるが、今の彼女の発言が耐えられなかった。

「そんなことないよ。君の絵は写真なんかよりもずっと素敵だ」

 僕の発言に彼女は一瞬、驚いた顔を見せたが、すぐに俯く。

「ありがとう。でも、気を遣わなくて良いのよ」

 その言葉に僕は深い寂しさを感じた。

 この賞賛は本心からのものである。あんなにも素敵な絵なのに、どうしてそんなに卑下するんだ。それが不思議だった。

「お世辞なんかじゃない。本当にそう思っている」

 自分でも何でこんなにムキになっているのかわからなかった。

 ただ、口が勝手に動いていた。

「君の絵には君自身の感情がこもっている。それは写真には出来ないことだ。僕は絵について素人だけど、君の絵を見て、心から惹かれたんだ。君の絵は素晴らしい。僕が保証する。だから、もうそんなこと言わないでほしい。卑下することは君の絵にとっても君の絵を素晴らしいと思った僕に対しても失礼だ」

 僕が言い切ると、彼女は伏し目でただ一言「……ありがとう」と呟いた。

 それから彼女の態度が少し変わったのがわかった。彼女は自分の横に置いていたカバンをどけて、人が座れるスペースを空ける。

 彼女から許しが出た気がして、僕はそこに腰掛ける。

 それに対し、彼女は何も言わなかったので、きっとそれで正解だったのだろう。

「君の名前は?」

「私は飛鳥井美羽。二年よ」

「だったら同級生だ。僕は原田拓実。先週転校してきたんだ」

「そう……」

 会話はしてくれるようになったが、それでもやっぱり素っ気ない。隣に座るのを許してくれたのだから少しは心を開いてくれたのだろうが、僕の質問に答え終わると、飛鳥井さんの視線はすぐにスケッチブックに戻ってしまう。

「飛鳥井さんは美術部なの?」

「そうよ。でも、あんまり熱心な方じゃないけどね」

「絵を描くのが好きなの?」

「好きよ。気が紛れるから……」

「そっか……」

 なんとなく、この話をそれ以上深掘りするのははばかられた。

 スケッチしながらではあるが、飛鳥井さんは僕の質問に必ず答えてくれた。それならと思い、何気ない風を装いつつ思い切って僕は尋ねる。

「飛鳥井さんって、付き合ってる男の子いるの?」

 その瞬間、彼女の肩が小さく動いた気がした。その事に気付いて、僕は咄嗟に表情を窺おうとしたが、顔を背けられてしまったので何もわからなかった。

「付き合ってる人は、今はいないわ」

「そうなんだ。だったら――」

 僕と付き合ってくれませんか? そう続けようとした僕だったが、突然、舌が動かなくなってしまった。その言葉を口にする勇気がその時の僕にはなかった。

 その後も僕と飛鳥井さんはいろいろな話をしたが、その間に飛鳥井さんから拒絶されることはなく、彼女は僕の質問に全て答えてくれた。

 思ったよりも話し込んでいたようで、部活終了のチャイムが鳴るまで僕は時間の経過に気付かなかった。

 クラブ棟へ行くという当初の目的も完全に忘れていた。

「ごめん。思ったよりも邪魔しちゃってたね」

「構わないわ。それに、絵を褒めてもらえて嬉しかったもの」

 荷物をまとめた飛鳥井さんが立ち上がる。

 最初はどうなるかと思ったが、なんだかんだ打ち解けられたのではなかろうか。そう思いながら僕も立ち上がる。

「美術部に備品を返しにいかないといけないから、もう行くわね」

「うん。じゃあね」

 飛鳥井さんが僕に背中を向ける。クラブ棟の方を見ると、活動終わりの生徒たちでごった返していた。飛鳥井さんが歩き出す。

 その瞬間、僕の中に無性に寂しさが湧いてきた。まるで自分たち二人の空間から飛鳥井さんだけがいなくなってしまう、そんな予感がした。

「ちょっと待って!」

 気付いたときには、飛鳥井さんを引き止めていた。

 彼女が立ち止まって振り返る。そして不思議そうな目を僕に向ける。

 何か言わなくてはと思った瞬間、またしても僕の口は理性を越えて勝手に動いた。

「飛鳥井さん。好きです。僕と付き合ってください!」

 慌てて口を押さえる。しかし一度口にした言葉は戻らない。

 飛鳥井さんの顔を窺うと、彼女は大きく目を見開いて驚いていた。その後、僕の視線に気付くとすぐに深く俯いた。

「……ごめんなさい。私はあなたと付き合えないわ」

 そう言い残して、彼女は走り去ってしまった。

 飛鳥井さんの背中が見えなくなり、僕は「やってしまった」と深く後悔した。

 今日会ったばかりの人間にいきなり告白なんてされたら、どんな人間でも困ってしまうだろう。打ち解けたと調子に乗って口が滑った。

 思い返せば、飛鳥井さんの絵はまだ描きかけだった。もし今日ここで僕が告白しなければ、明日もここに来て続きを描いていたことだろう。

 しかし、あんなことがあった以上おそらく飛鳥井さんはもう二度とここに現れることはない。原因は僕だ。衝動に任せて告白なんてしなければ、明日も彼女と会えたかもしれないのに……。

 僕は何度も何度も何度も過去の自分を責めながら立ち尽くす。

 その日は肩を落としながら自宅へ帰宅した。暗い顔で玄関を跨いだ僕のことを家族はたいそう心配しながら迎えてくれた。特に母はひどく狼狽しており、転校先で上手くやれているのかをしきりに聞いてきた。心配を掛けていることに心苦しさを感じながら、僕は「大丈夫」とだけ答えて自室に戻る。

 その翌日も散々だった。自分では既に切り替えられていたつもりだったのだが、前日の失恋は僕が思っていたよりも遙かに強く心へダメージを与えていたようだ。

 その日の僕はやることなすこと失敗続きで、授業中に何度も注意を受けた。

「なあ、何かあったのか?」

 ホームルーム終わりに、今日何度目かわからない質問を恭平から受けた。

「大丈夫。気にしないで」

 そして、これまた今日何度目かわからない答えを返す。

「そうは思えないから言ってるんだが……。まあいい。今日はなんかあるのか?」

「いいや。何も……」

 もちろん予定なんてないし、あったとしても今はそれどころじゃない。

「だったら、今日こそ一緒に帰ろうぜ」

 僕は小さく頷く。きっと恭平は転校生である自分のことを心配して誘ってくれているのだろう。だったら断るのは失礼だ。甘えよう。

 それに、一人で帰っても昨日のことを思い出すだけだったから助かった。

 帰り支度を終えて教室から出ると、一人の女生徒が遠くからこちらに歩いてきていることに気付いた。女生徒は僕の存在を捕捉すると、早足になって近づいてきた。

 そして、女生徒は僕ら二人の目の前まで来て立ち止まる。

 僕は彼女を知っていた。

「原田くん、こんにちは。今から帰り? だったら丁度良かった」

 なんと、そこにいたのは僕が昨日告白した相手、飛鳥井美羽さんだった。

 動揺する僕とは対照的に、飛鳥井さんは昨日の告白前と変わらない様子だ。いや、むしろ告白する前よりも若干、僕に対して気安いようにも思えた。

 隣では昨日のことを知らない恭平が、僕と飛鳥井さんの顔を交互に見比べていた。

「あなたに用事があったの。ちょっと良いかしら」

「う、うん。もちろん」

 僕はすかさず恭平にアイコンタクトを送る。すると恭平も状況がわかっていないなりに気を回してくれ、一度頷いた後に何も言わずこの場を去ってくれた。

 恭平が誘ってくれたことももちろん嬉しかったが、今はこっちが優先である。僕は心の中で「ごめん」と謝る。

「こっちよ」

 飛鳥井さんに先導されて廊下の奥へ向かう。

 この時、僕は他の生徒たちから好奇の視線を沢山集めていたのだが、当時の僕はそれどころではなかった。

 振られた相手と二人きりという状況に気まずい気持ちも当然あったが、それよりも彼女から避けられていないという喜びの方が大きく、舞い上がっていた。

 冷静に考えて、飛鳥井さんの言っていた「用事」が、僕にとって好ましいものである可能性は限りなく低い。せいぜい数パーセントくらいだ。

 わざわざ僕に声をかけたのはきっと、面倒な頼み事をするのに都合良かっただけなのだろう。そんなことはわかっていた。

 それでも、飛鳥井さんから頼られたことに喜びを感じる僕がいた。そして、飛鳥井さんの頼みを無条件で聞いてあげたいと思う僕もいた。

 連れてこられたのは屋上へと続く階段の踊り場だった。

 うちの高校は屋上を生徒に開放していない。そのため、放課後にこんな所に来るような人間は僕たち以外にいなかった。野次馬たちも途中で僕たちを見失っていた。

 階下から下校する生徒の声がかすかに聞こえるものの、それ以外に僕たちの会話を邪魔するものはこの空間に存在しなかった。二人っきりである。

 飛鳥井さんと向かい合った僕は真っ先に頭を下げる。

「昨日はごめん。……もう会ってもらえないと思ってた」

 もしも飛鳥井さんがまた僕と口をきいてくれるなら、まず初めに謝ろうと決めていた。それだけのことをしでかしてしまった自覚はあった。

 飛鳥井さんは笑ってこたえた。

「そんなことしないわ」

 やはり、飛鳥井さんは昨日の告白を気にしていないようだ。その事を僕は少し寂しく思いつつ、同時にホッと胸をなで下ろす。

「それで、どんな用事?」

 思い切って尋ねる。すると飛鳥井さんは、その問いに答える代わりに、僕の顔を無言でじっと見つめ始めた。

「えっと……。何ですか?」

「……」

 返答はない。飛鳥井さんの澄んだ瞳に見つめられ、僕の心臓は大きく高鳴る。勘違いしてまた好きになってしまいそうだった。

 しばらくして、視線を外した飛鳥井さんが小さく息を吸ったのがわかった。これから何を言われるのだろうかと、僕は息をのむ。

「単刀直入に言うわ。……原田拓実くん。良かったら私と付き合ってもらえないかしら?」

「はい。よろこんで!」

 僕は一切疑うことなく即答した。

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