理想郷

ジュッコウザル

手紙

 私はすぐに出発した。

 

 ずっとここに骨を埋めるだろうと、愛していた理想郷りそうきょうを捨て、旅立った。


 荷物は背嚢はいのう一つとパンパイプだけだ。驢馬ロバのトゥーの丈夫な背中に身を預け、大川に沿って国を出ていったのだ。


 故郷から離れると川の幅が徐々に狭くなり、無数の蛇が荒れ狂うような流れが力を失っていった。今まで私の地平線を柔らかく包んでくれていた針葉樹林しんようじゅりん斑模様まだらもようになって、やがて木が一本も立っていない草原だけ、見渡す限り広がっている。


 ここは人間も住めない地だ。


 夜は焚き火を眺めながら国の音楽を奏で、トゥーに聞かせてやった。二ヶ月間、毎晩違うところで野営し、娘のことや、生まれ故郷のことに思いを巡らせながら寝入っていた。


 旅を続けているといつの間にか大草原が砂漠になっていた。川もどこかで蒸発してなくなっている。砂しかない世界は涙を許さないのだ。しかし前方に一つだけ、尖った小さな山が薄っすらと見えてきた。私はそれを目指して砂山の中を行った。


 食糧が残り少なくなった頃に、トゥーが足を痛めた。歩けなくはないが、人を乗せて運ぶのは無理だ。驢馬と並んで、ゆっくり歩いていった。


 尖った山は段々と大きくなり、くっきりとした輪郭を現した。もう、食べ物はない。目の前の眺めを糧にして一歩ずつ前に進んでいった。山の方に近づくと砂漠が途絶え叢の広がる場所、そして見たことのない樹木が見えてきた。最初の木を通り過ぎようとした時にトゥーが倒れ、すぐに息を引きとったので、木陰の中に広々としたお墓を掘ってやった。


 山の麓に背の低い頑丈な木々に囲まれて、小さな集落があった。足を震わせやつれた顔の私を見ると村人が助けてくれる。彼らが不思議な方言で勧めてくれる食べ物と柔らかい寝床を丁重に断り、道案内を願い求めた。


 集落から少し離れたところ、小川の隣に娘たちの家が立っていた。山羊ヤギニワトリが自由に南瓜かぼちゃ畑を歩き回っている。川辺に、花一本しか生えていない土の盛り上がりがある。


 その家の扉を叩くと、娘の旦那が迎えてくれた。


 彼の腕の中から、碧い布に包まれた、小さな顔が覗いていた。私は玄関に立ちながら孫を抱き、涙をこぼした。


 理想郷を捨て、私は再び、母になった。

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理想郷 ジュッコウザル @jukkozaru

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