6.願いを叶える魔法はたった一つ
光が消え去り、あとには痛いほどの静けさが残された。
リゼットが恐る恐る前を向くと、床の上に燕尾服を着た猫が仰向けに倒れている。死んだようにひげの一本も動かさない姿に、リゼットは慌てて走り寄った。
「ねこ……猫! しっかりしてください!」
ゆすっても頬を叩いても、猫は目を開かない。ふわふわの頭をそっと撫でたところで、誰かに背後から引っ張られた。ぎょっとして振り返れば、そこには苦虫を噛み潰したような顔をしたクライドが立っている。
「く、クライド師匠……猫が……。というか、無事だったんですか!?」
「無事かといえばそうとも言えない。お前の精神と繋がったおかげで再び目覚めることはできたが、圧倒的に魔力が足りてない。早く魔法装丁を取り戻さないと、今度こそ本当に死ぬかもしれん」
「え、ええ、じゃあどうしたら……。と、とにかく今はねこ、猫を!」
「わかってる」
クライドは素早く膝をつくと、猫の額に手を当てた。たったそれだけのことで、猫を目覚めさせることができるのか。リゼットがハラハラしていると、楽しげな笑い声が響いてきた。思わずそちらを見れば、オーレンがにやりと笑みを返す。
「魔力が枯渇しているというのに、眷属に力を分け与えるとは。なかなか泣かせるじゃないか。そんなに死に急ぎたいのかな?」
「うるさい、黙れ。お前は今だって魔法図書館から出ることさえできてないくせに。機能不全に陥っているここを制御下に置けない時点で、お前の魔力の程度が知れるというものだ。魔法使いの末裔が聞いてあきれるな」
「ははっ、相も変わらず不快な男だ! どちらが優位かわかっていないようだな……さあ、行け! 『風の烙印』!」
オーレンの頭上に緑色の装丁本が浮かび上がる。くるくると回転する装丁本は、激しい風を巻き起こし、周囲のすべてを薙ぎ払っていく。嵐のごとき突風にリゼットは悲鳴を上げてうずくまる。
「く、クライド師匠! ど、どうしたらいいんですかぁっ!」
「情けない声出すな! とにかく時間を稼げ! 前に行ってぶん殴ってこい!」
「む、無茶苦茶言わないでくださいよー!」
文句を言いつつも、現状としてリゼットにできることはそれくらいしかない。迫りくる激しい風に耐えつつ、一歩ずつ前に進む。ほとんど床に張り付いているような状態は、さながら何かの虫のようだ。自分の考えに思わず苦笑いすると、オーレンが忌々しげにリゼットをにらみつけてくる。
「まだ諦めていないのか? 地を這う虫けら程度の力しかないくせに。そんな貧弱な腕で僕の願いを阻めるっていうのかい?」
「あなたの願いなんかどうでもいい……! わたしは私にできる最善のことをする、それだけです!」
今更、悪意の言葉で刺されたって、泣いたり怒ったりなんてしない。少なくとも今のリゼットは一人ではないし、守りたいものも守ってくれる人もいる。この期に及んでリゼットを操れると思っているオーレンには、今のこの気持ちは理解できないだろう。壊すことしかできないオーレンとリゼットの決意は、手が届かないほど遠くで断裂していた。
「ははっ! だったら無残に何もかも奪われたまま泣きじゃくっていろよ! さあ次は『水の烙印』!」
『風の烙印』は動きを止め、続いて青い装丁本が進み出る。宙を漂う『水の烙印』は、風が止まった空間にいくつもの水泡を浮かび上がらせた。それぞれが大人一人分くらいの大きさがあり、あれがぶつかってきたら跳ね飛ばされるだけでは済まなそうだ。
「さすがにあれを殴るのはちょっと無理がありますか」
リゼットが後ろに下がると、猫の額に手を当てたままクライドが視線を投げてくる。その目は冷静さを失っておらず、まったくこの状況に怯みもしない。もしかすると単に腹をくくっただけなのかもしれないが、彼の口から放たれる言葉には強い意志が込められていた。
「……水を殴るのは得策じゃないが、これだけの質量を操るのは相当の魔力を消費する。状況が長引けば不利になるのはあちらの方だ。持久戦に持ち込めば勝ち目はある」
「何をごちゃごちゃ言っているんだい? はっきり言うが、持久戦に持ち込んだところで手数が多いこちらの方が有利なことには変わりない。それに、魔法図書館の制御を奪い返せていない時点で、そちらの魔力だって風前の灯火だろう?」
「は、どうだかな。俺とお前でどっちの魔力が尽きるのが早いか勝負でもするか?」
「冗談。そんな時間をかける前に、さっさと決着をつけるさ。――行け」
オーレンがこちらを指さす。それだけのことで周囲の水泡がぴたりと揃って揺らぐのをやめ、素早く――というにはやや緩慢に、リゼットたちに殺到してくる。
「クライド師匠!」
「まともに水泡なんかとやりあうな! あれの本体はどっちみち『魔法装丁』だ。あれを殴ったって何の意味もない!」
「了解しましたよ! わたしに任せてください!」
言うが早いか、リゼットはまっすぐに水泡へと駆けていく。水泡を殴っても意味はない。だとしたら、この状況を打開するために必要な行動は一つ。
「行きますよ! いい加減目を覚ましなさい……!」
地面を蹴り、走る。襲い来る水泡の間を縫うようにしてリゼットは駆けていく。水泡の数は多いが、迫ってくるスピードは思ったほど早くない。ぶつかる間際で身をひるがえし、リゼットは踊るような足取りで前へと進んでいく。
目指すはオーレンの周囲を舞う『魔法装丁』たち。一つでも取り戻せれば、クライドの力になるはず。力を込めて前をにらめば、オーレンの顔がわずかにひきつる。
「そんな見え見えの行動、読めないとでも思ったか! さあ、焼き尽くせ! 『火の烙印』!」
『水』の魔法装丁が後退し、続いて『火の烙印』が前へと進み出る。宙を舞う赤い装丁本は灼熱の輝きを宿したかと思えば、次の瞬間。
「――っ!」
ごう、と音を響かせ、炎の塊が傍らを通り過ぎていく。一歩間違えば火だるまの状況に、嫌でも背筋に冷たいものが流れる。リゼットの動揺を見て取ったのか、オーレンは愉快そうに目を細めて笑う。
「さすがの君でも、炎に突っ込むほど無鉄砲ではないか。まあ、自慢のその拳で炎を殴ったところで、次には焼け焦げた無残な姿をさらすだけだろうからね」
「無駄話が多いですね。もしかして焦っているんですか?」
「まさか。どうして僕が君程度に焦らなければならない」
不快そうに眉を寄せ、オーレンは指を上に振り上げる。途端に熱気が足元からせり上がり、リゼットは慌ててその場から飛びのく。刹那、火柱が地面から燃え上がった。急いで距離をとるが、歩めば歩むほど火柱が追跡してくる。
「いいねぇ。さすがの君も火が相手では対抗できないか! ははっ!」
「笑っていられるのも今のうちです……!」
言い返しつつも、このままではいずれ炎に追いつかれるだろう。リゼットは唇を噛みしめながら考えを巡らせる。炎は追跡してくるが、回り込んできたりはしない。つまり、リゼットが走った後にしか出現できないということなのだろうか。
「それに」
走りながらリゼットはオーレンをあらためて観察する。あれだけ不遜な態度をとっている割には、魔法装丁の力を一種類ずつしか使ってこない。もしかすると、いやもしかしなくてもクライドの言う通り、オーレン自体の力は大したことがないのかもしれない。
そう考えると、一種類しか魔法装丁を使わない理由が何となくわかった。恐らくオーレンは、複数の魔法装丁を動かすだけの力は持っていない――。
「なら、これで!」
リゼットは突然方向を変えると、オーレンに向かって走り出した。今までは混乱していてわからなかったが、やはり攻撃は一種類しか発動しない。迫ってくる炎なんて、それより早く走り抜けてしまえばどうということはない。リゼットは猛然とオーレンへと向かうと、握りこぶしを作って跳躍する。
「な!?」
「食らってください!」
オーレンは短い悲鳴ともに後退する。だが魔法装丁は宙を漂ったまま、追随しない。突然、宿主と切り離された装丁たちは、戸惑うようにくるくると回転する。
「くそ! 戻れ、『水』『火』……」
「遅いです! さあこっちに!」
リゼットはもっとも近い場所を漂っていた『風の烙印』に手を伸ばす。緑色の装丁本は、触れられた瞬間ぴくりと震え、続いて勢いよく手の中で回転する。
『きゅうーん!』
装丁の端っこからリスっぽい生き物が顔を出す。そしてパタパタと駆けまわったかと思えば、勢いよく後方――クライドたちの方へと飛んでいく。
「よし! ……これであなたの力は減りましたよ。まだやるんですか?」
「今更やめろと……!? ふざけるな! 僕はまだ負けていない! お前らなんかに……!」
オーレンが歯噛みし、再び前面に魔法装丁を展開させる。だがそれよりも早く、頭上から黒い影が舞い降りてくる。
「な、まさか」
「さあて、ここからが正念場。覚悟はできてるんだろうな?」
リゼットの隣に舞い降りたのは、金色の獅子とそれにまたがる黒い装丁師。肩に『風』の化身を乗せたクライドは、『地の烙印』である獅子の上から不敵な笑みを送ってくる。
「よくやった、リゼット。『風』が戻ったおかげで、俺の力も少し回復した。これならやつの力にも対抗できる」
「くそ、くそっ……! 忌々しいっ! どうせこの世界は、力あるものに踏み荒らされる運命なんだよ……! だったら僕が壊して何が悪い! きれいごと並べたって、お前らだって僕と同じ狢だろうに!」
「さてな。お前が何をどう思うとそれを変えさせるつもりはないが。だがな、お前はいろいろやりすぎたよ。……意志の伴わない力は、どうやったって暴力にしかなり得ない」
リゼットは無言でクライドを見上げた。装丁師の瞳はどこまでも厳しくて、偽りなど入り込む余地はない。ただ、わずかばかりみせた笑みが、ひどく苦々しかったことだけが印象深かった。
「だってそうだろ? 魔法ってものの真髄は『信じること』だ。何一つ信じない者の元には奇跡は訪れない。奇跡とはすなわち『魔法』のひとかけらであり、人間が世界ってものから愛された証でもある。『信じることとは愛することでもある』……うちの曽祖父はそう言って、魔法装丁に封印をかけたそうだよ。のちの世が、魔法装丁を正しい意味で扱うことを願って」
「だから何だ? それを踏みにじったから僕に謝罪しろとでも?」
「いいや。だけど、お前をどうしても一発殴りたい」
「なに?」
クライドの目がオーレンを射抜く。その瞳に浮かんでいたのは、ひどく冴え冴えとした感情だけだった。
「話は終わりだ。残りの魔法装丁を返す気がないなら、あとはやるだけだ」
「ええ、行きましょう。クライド師匠」
リゼットとクライドが並び立つ。オーレンは悔しげに顔をゆがめると、大きく息を吐き魔法装丁を指さす。
「こんな、こんなことで終われるかぁああああっ!」
叫びと共に水が踊り、炎が舞う。
こうしてリゼットたちの最後の戦いが始まった。
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