5.銀色の悪魔はただひとりの舞台で踊る

 目を開く。

 それだけのことなのに、いつもよりもまぶたが重く感じた。


 何度か瞬きを繰り返し、リゼットはゆっくりと体を起こした。周囲は明かり一つもない暗闇で、他には誰の姿も見えない。まるで深い夜の中に閉ざされたように、静けさだけがこの場に満ちている。


「……クライド師匠?」


 呼びかけても応えは返らない。声は夜の中に吸い込まれ、反響さえも残さなかった。直前までの温かな光景は死の間際に見た幻だったのだろうか。そうだとしたら、リゼットはもう死んでしまっているのか。


「それは嫌ですねぇ……」


 暗闇に手を伸ばしても、何一つ掴めはしなかった。せめて光の一つも見えたなら、希望があると信じられただろうに。そう言ったところで、現実は夜の底に落ちていくような感覚と一緒に暗闇を漂っているだけだ。


「誰か」


 誰もいないんですか。誰か応えてください。誰か、だれか。誰か。


 誰でもいいから、この手を掴んでください。リゼットだって、そんな都合よく願いが叶うとは思っていない。だが、それでも願わずにはいられない。誰か、せめてこの声だけでも届いてくれたなら。


「だれか、助けてください」

「助けてほしいのかい? なら、手を伸ばすといいよ」


 心の表層をそっと撫でていくような声に、リゼットはうつむきかけた顔を上げた。反射的に手を伸ばしかけ、すぐに動きを止める。この声には聞き覚えがあった。あまりにも忌々しいこの声の主は――。


「オーレン、どういうつもりですか」

「どうって? 君を助けてあげようとしているだけじゃないか。そんな場所で一人きりなんて寂しいだろう? さあ、手を」

「ふざけないでください……!」


 身勝手な言葉を投げかける相手は、どこにいるのだろう。虚空をにらんだところで、姿を見つけることはできない。リゼットが敵意をむき出しにしていると、オーレンの声はどこか冷めたように呟きをもらす。


「困った娘だ。大人しく言うことを聞けばいいものを」

「誰があなたなんかの言うことを聞くものですか!」

「ああ、面倒だな。さあ、来い」


 腕が何かにからめとられる。叫ぶ間もなく、リゼットは異様な力で上へと引っ張られていく。どんなに抵抗しても、身をよじっても逃れることができず、気づけば冷たい床の上に身体を投げ出されていた。


「やあ、よく来たね。元気そうで何よりだよ」

「っ、オーレン……!」


 腕の痛みに耐えながら、リゼットは何とか身を起こす。正面を見れば、悠々とした様子でオーレンが佇んでいる。彼の周囲には当然のことのように魔法装丁が舞っていた。その光景があまりにも異様で、リゼットは大きく肩を震わせる。


「オーレン、魔法装丁をどうするつもりですか」

「どうするって? なぜ君がそんなことを気にするんだい? どうせ何もできないのに」

「いいから答えてください! 魔法装丁の力を悪用するつもりですか!?」

「悪用? ああ、そうだね。これを悪用というなら、そうだろうね?」


 オーレンが指を鳴らす。するとリゼットの目前に一つの光景が描き出される。それは激しい地震に襲われ、炎と水と風によって破壊されていくソレルの街の姿――。


「あなたまさか……街を壊すつもりですか……!?」

「うんうん、よくわかったね。僕はね、リゼット。何かが壊れる姿を見るのが好きなんだ。すべてが崩れ落ちる瞬間、悲鳴を響かせる世界――ああ、なんて美しいんだろう? 君もそう思わないかい?」


 恍惚とした笑みを浮かべる銀の男の言葉に、リゼットが同意をするはずもなかった。狂っていると単純に言ってしまうには、オーレンの目は澄み切っている。彼はおそらく本当に信じているのだ。崩れ去る世界が美しいと。そんな破壊を皆が許容できるはずもないというのに。


「ソレルを壊して、そのあとあなたはどうするつもりです」

「そうだねぇ。ソレルを壊せば、魔法装丁を縛っている不完全な封印もすべて解けるだろうし。そうしたら他の場所を壊しに行くのもいいかもね。まあ、僕程度の力では魔法装丁の力を完全には御せないから、狙って壊すことはできないだろうけども」


 どうでもいいことのように告げて、オーレンは笑った。まさか、自分が御せもしない力で無差別の破壊をもたらそうとしているのか。あまりの利己的な考えにめまいがした。どうして、日々の平穏をそんな風に破壊したいと思えるのだろう。


「あなたは、この世界を憎んでいるのですか」


 リゼットはそれでも、オーレンの考えを理解しようとした。たとえ彼の想いを肯定できないとしても、何かしら共感できる理由があると思った。オーレンは笑みを消すと、リゼットをまっすぐに見た。その銀色の瞳にはまだ、理性が存在している。だが、それでも。


「いいや、憎くはない。むしろ愛しているよ。この世界には、僕が壊せるだけの多くのものが存在している」


 理解は、はるか遠い場所にあった。少なくともリゼットがオーレンに歩み寄ることはできなかった。たぶん、オーレンは本当にただ壊したいだけなのだ。彼の過去に悲惨な現実が存在していたとしても、それはきっかけでしかない。本当にオーレンはすべてを壊すことを願い、その行為を深く愛している――。


「わたし、頑張れば何だって理解できるって信じてました。だけど」

「だけど? なんだい」

「……あなたは悪魔です、オーレン。多くの人を傷つけるだけのあなたの願いは、断たなければならない」


 リゼットは震えながらも立ち上がった。恐らくクライドの助けは期待できない。それでもこの悪魔を止めなければ、多くの人の幸せが失われてしまう。だからどうあっても、リゼットは引くことができなかった。それはソレルの公女としての義務というだけではなく、ひとりの人間として皆を守りたいという思いの表れでもあった。


「そうかい、じゃあ止めてみなよ」


 オーレンはゆっくりと後退する。彼の踏みしめた影のあとから、何かが浮かび上がってくる。それは見間違うことなどありえない、金色の獅子の姿で――。


「……猫……!」

「さあ、『地の烙印』! あの娘に自分がいかに無力かを思い知らせてやれ!」


 オーレンはこちらに指を向ける。それと同時に金色の獅子は跳躍し、リゼットの前に降り立つ。黄金色の目がリゼットを映し出しても、猫であるはずの『地』の化身は何の感情も示さなかった。


「猫、しっかりしてください!」

「やれ、『地の烙印』!」


 獅子の顎が開かれ、凶悪な牙が目の前にさらされる。逃げる隙はもうどこにもなかった。無力なリゼットは、ただただ震えながら牙が迫るのを見つめることしかできない。


「い、いやぁあああっ!」


 リゼットは叫びながら目を閉ざす。だが、一瞬後に訪れはずの痛みはいつまでも襲ってこない。なぜ? 恐る恐る目を開くとそこには――。


「くそ、どうして俺がこんなことしなきゃ!」


 黒いジャケットの背中が見えた。獅子の牙はリゼットに突き刺さることなく、現れたクライドの目前で止まっている。状況が分からず目を回すリゼットに、クライドが叫ぶ。


「おいリゼット! こいつに一発かましてやれ!」

「え、は、はいっ!」


 言われるままにリゼットは拳を作ると、獅子の鼻面に殴りかかる。がん、と硬い手ごたえと音が響いた刹那、時が停止したような静寂が流れ、そして。


「ぎ、ぎにゃあああああっ!」


 金色の獅子が悲鳴を上げる。それと同時に獣の体が白い光とともに爆発した。

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