4.夢も現も変わることなき狂騒の中に

「待ちなさい! どこまで逃げる気ですか!」

『きゅっ!』


 装丁本は軽快に宙を飛ぶ。追いかけるリゼットとクライドは当然のことながら、地に足を付けたまま走らざるを得ない。そのため、どんどん装丁との距離は開いていき、そのうち姿すらとらえることもできなくなった。


「お、おい……ま、まて。そんなに急ぐな、息が切れて死ぬ」

「別にそこまでの距離走ってないじゃないですか。相変わらず貧弱な体力なんですね?」

「う、うるせぇ。というか、あれはどこ行ったんだよ」


 いつの間にか二人は、屋敷の中庭に降り立っていた。庭師が丹精込めて整えた樹木に囲まれたそこは、隠れるには絶好の場所だった。色とりどりの花が咲き誇る花壇を横目に見つつ、リゼットたちは慎重に装丁本の姿を探す。


「うーん、装丁本さーん。出てきてくださーい」

「それで出てきたら世話ないよな。なんで逃げてんだお前って、ツッコミ入れたくなる」

「む、そんなこと言ってないで、クライド師匠も呼んでみてくださいよ! 装丁本さんー! お返事してくださいー!」

『きゅっ』


 奥ゆかしい鳴き声が、すぐそばから聞こえてきた。庭の中央に植えられた、ひときわ大きな広葉樹の幹――その陰から、装丁本が端っこを出して様子をうかがっているのが見える。


「…………」

 リゼットたちは顔を見合わせ、じりじりと装丁本との距離を詰めていく。装丁本の方はというと、二人の様子を無言で観察したあと。


『……きゅ』


 再びの逃走。今度は廊下のさらに奥に向かって飛んでいく。リゼットたちも今度は声を上げることもなく、全力で装丁本のあとを追いかける。


「クライド師匠! 良いお知らせです!」

「な、なんだ。どんなお知らせだよ」

「あの子の飛んで行った先、他に通り抜けられる道はありません! 書斎の扉があるだけです!」

「よっし! 行くぞ小公女! あの装丁本をさっさと捕まえてやれ!」


 息切れで今にも息絶えそうなクライドは、最後の力を振り絞って駆けていく。リゼットも足に力を込めて走っていけば、すぐに書斎の扉とその前で停止している装丁本が見えた。


「あ、いました!」

「よし、捕まえるぞ!」


 二人は勢いのままに廊下を突っ走る。装丁本はいまだ宙にとどまったままだ。手を伸ばせば簡単に捕まえられる。数歩の距離を飛ぶように駆け、リゼットが手を触れようとしたその途端。


『きゅ!』


 装丁本はその場でくるりと回ると、素早く扉をすり抜け奥へと姿を消した。結果、目標を失った二人は、勢いのままに扉へと突っ込むことになってしまう。


「うきゃあっ!」「ぬわあっ!」


 変な叫びを上げながら、リゼットとクライドは書斎になだれ込む。衝撃で書斎の棚に積まれたままだった本がぼとぼとと音を立てて落ちてくる。あれを食らったら相当痛い。ぎょっとしながらも床の上で体を反転させたリゼットは、目を丸くしてこちらを見ている誰かの姿に気づいてしまった。


「え」


 途中で動きを止めてしまったがために、リゼットの頭へと本が落下する。だが、落下物の攻撃を受けてなお、目の前に存在している人の姿以上の衝撃は感じられなかった。


「いって……おい、小公女。どうしたんだ、変な顔をして」

「え、え……うそ」


 近くで頭を抱えているクライドは放置して、リゼットは立ち上がるとその人の元へと駆けていく。書斎に置かれた安楽椅子の上からこちらを見つめていた『彼女』は、近づいてくるリゼットに穏やかな微笑みを向けてくる。


「あ、あの……わたし、あの」

「ふふ、どうしたのそんな驚いた顔をして。何かおかしなことがあったのかしら?」

「い、いえその……あの! あなたは」


 セピア色に染まった記憶の中で、時が静止したかのように『彼女』の瞳は穏やかだった。ずっと昔に失われてしまったはずの微笑みに、リゼットは言葉もなくただ立ち尽くすしかない。この光景が幻想でしかないとわかってもなお、『彼女』の存在はあまりも鮮やかで――自然とリゼットの目に涙があふれる。


「おばあ、さま」

「ええ、そうよ。私の可愛いリゼット。どうしてそんなに悲しい顔をしているの?」

「い、いいえ、違うんです。おばあさまの姿と見たら、わたし……なんだか嬉しくて」


 目をぬぐっても、祖母の姿は消えていかない。柔らかな銀色の髪も、リゼットと同色の青い瞳も、しわに囲まれながらも品を失わない口元も、幼いリゼットが良くまとわりついていた懐かしいひざ掛けも、全部が全部記憶のままだった。


「その人は、お前の祖母なのか」


 少し離れた場所で腕組みしていたクライドは、祖母の姿を見つめて何か言いたげな顔をする。この世界で装丁本以外に動く存在に出会ったのはこれが初めてで、クライドの目はその意味を探っているようだった。


「ええ、この方はわたしの祖母です。おばあさま、こちらは装丁師のクライドさんです」

「あらまあ、装丁師! もしかしてフラメル様のお孫さんかしら? あの方には昔、とてもお世話になったのよ。もうずいぶん前のことだから、あなたは知らないかもしれないけれども……あの方は魔法使いとしても装丁師としても優秀だったけれど、ちょっと偏屈なところがあったから、ご家族がいるとは思わなかったわ」


 ここが元の世界であったなら、何でもないやり取りであったかもしれない。けれど、ここがある種の心象世界である以上。リゼットの意志や知識以上の言葉を祖母から引き出すことは不可能なはずだった。


 にもかかわらず、祖母はあっさりとリゼットの知り得ない知識を口にした。クライドの曽祖父が魔法装丁師だとは聞いていたが、まさかリゼットの祖母ともつながりがあったとは――いや、祖母が本物と言えない以上、この言葉の信ぴょう性はどれだけあるのか。


「あなたは俺の曽祖父フラメルを知っているのか。どういう関係だったか聞いても?」

「ええ、もちろんよ。私が本当に若くて無知だった娘のころ、あの方に助けて頂いたのよ。若かった私は、大公家の娘ということを振りかざして、好き勝手していたの。それである日、父に見限られて外に放り出されてしまったのね。恥ずかしいことだけど……大泣きしていた私を拾ってくれたのが、他でもないフラメル様だったの」


 上品な淑女の代名詞と言ってもいい祖母が、そんなおてんばだったとは知らなかった。血は争えないということか――そう思っていると、祖母はリゼットににこりと笑いかけた。


「だけど、私は感謝したりしなかったわ。むしろ、余計にいら立ってフラメル様に当たり散らしたの。それでも彼は私を見捨てたりはしなかったわ。とても優しくて、不器用な人だった」


 祖母とフラメルはどういう関係だったのだろう。祖母の穏やかな顔を見ていると、言葉以上の何かが秘められている気がして、不思議な気分になる。リゼットの変化に気づいたのだろう。祖母はリゼットの手に触れて優しく微笑む。


「それからしばらく一緒に過ごして、ある日、父が迎えをよこした。私は帰りたくないと言ったけれど、あの人は無言で背を押したわ。そして別れ際に、これをくれたのよ」


 祖母はひざ掛けの下から、古びた一冊の装丁本を取り出した。それはリゼットたちから逃げ出したはずの装丁本で、クライドは低くうなって顔をうつむかせる。


「つまり? その装丁本も魔法装丁なのか?」

「そのようね。フラメル様が当時制作していた四つの『烙印』とは別種の、ただ優しい願いだけを込めた……本当に些細な、けれど私にとっては大切な、幸せな魔法の装丁本」


 祖母が表紙を撫でると、端っこからうさぎっぽいものが顔を出して嬉しそうに目を細める。ぼろぼろになってしまっていても、祖母に向けられた魔法は永続的なのだろう。何となくそれが分かって、リゼットの心は温かくなる。


「そのあと、いろんなことがあって。なかなか手入れもしてあげられなかったけれど、この子は私に最良の出会いを運んできてくれたわ。ねえ、リゼット」


 ふと思う。――この祖母は、リゼットの記憶から再生されたものではない。少なくとも、この祖母は祖母自身の意識として確立されている。だとしたら、この空間がなくなればこの人はどうなってしまうのか。


「おばあさまは、本当におばあさまなんですか?」

「ふふ、変なことを聞くわねぇ。私は私ですよ。確かに私という存在は失われてしまっているけれど、世界の記録からも消えてしまったわけではないの。だから、リゼット。あなたが願う限り、私はそばにいるわ」


 祖母は笑みを浮かべながら、リゼットの手を優しくなでる。そのしぐさだけで、リゼットは自分がどれほど愛されていたか知った。かつての記憶の中では、あまりの奇行を見せてしまったけれど、それでも祖母はリゼットの味方だった。


「ねえ、リゼット。あなたにも最良の出会いは訪れたかしら?」


 リゼットはそっと顔を伏せた。書斎の床には二人分の影が刻まれている。リゼットとクライドと。祖母の影は探してもどこにもない。ただ、わずかに装丁本の影が映し出されているだけだ。


 ここにいるのに、祖母もういない。その事実は何度世界が回ったって変わりはしないのだろう。顔を上げると祖母が笑っている。たったそれだけのことなのに、失ったものの大きさに改めて気づかされた。


「はい。はい……たぶん。いいえ、きっと!」

「そう、よかったわ。あなたはちょっと変わっているから、上手くやれているか心配だったの。だけどもう、大丈夫ね」


 祖母はもう一度笑顔を浮かべると、リゼットに装丁本を差し出した。リゼットが触れても、今度は装丁本も逃げ出さなかった。古びていても手になじむその装丁本を胸に抱くと、リゼットも祖母に向かって笑顔を向ける。


「ありがとう、おばあさま」

「いいのよ。あなたはあなたの望むとおりに生きなさい。私の可愛いリゼット」


 最後にリゼットの手に触れて、祖母は静かにまぶたを下ろした。午後の日差しの中でまどろむような表情を見つめて、リゼットはぽつりと呟きをもらす。


「どうしてでしょう。悲しくても涙が出なくなる時ってありますよね」

「お前は今、悲しいのか」

「いいえ。……もう一度会えて、嬉しいって思います」


 軽く唇をかんでから、リゼットは装丁本をクライドに差し出した。これでこの世界ともお別れになる。わかってはいたが、心の痛みに目元が熱くなる。


「クライド師匠、お願いします」

「わかった」


 リゼットから本を受け取り、クライドは目を閉ざす。彼の手の中で装丁本はゆっくりと浮かび上がり、静かに光を放ち始める。くるくると回転する装丁本はやがて、一つの軌跡を描き始め――。


「さあ、帰るぞ。……夢を見る時間は終わったんだ」


 ひと際強い光が視界を焼く。世界を白く染め上げていく輝きの中、リゼットは最後に祖母の微笑みをまぶたに焼き付け、静かに目を閉じた。

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