3.幸せな小公女の心象風景
目を開くと、見慣れた屋敷の天井が見えた。
リゼットはぼんやりとした目で、天井の木目を見つめる。あの木目は手形に見えるから、いつも夜は怖く感じていたのだっけ――。そんな風に思った瞬間、はっと上体を起こす。
「クライド師匠!」
クライドの名を呼び、部屋の中を見渡す。だが少しだけ開かれた窓からの風が、淡いグリーンのカーテンを揺らすだけで、他に動くものはない。リゼットはベッドから立ち上がると、落ち着きなくその場をぐるぐると歩き回った。
「どうして? なんでお屋敷に戻ってるの? あれは夢? まさか……そんな」
混乱が心の中いっぱいに広がり、リゼットは耐え切れずに頭を抱えた。夢だったのならどんなにいいか。だけど、あんな長くてリアルな夢が存在するのだろうか?
「とにかく、こうなったら」
リゼットは手早く身支度を整えると、鞄を手に扉へと向かった。こういう時、人に頼らず身支度を整える方法を覚えてよかったと思う。そのまま急く心のままに扉を開こうとすると、唐突にノックの音がする。
「はい! なんでしょう!」
「うわああっ! って、どうしていきなり開く!」
「はい?」
勢い良く扉を開いた先には、見覚えのない少年が立っていた。目深にかぶった帽子に、お仕着せから伸びた頼りないくらいに細い手足。どんなに眺めても誰なのかわからず、リゼットは無言で帽子に手を伸ばす。
「今度は何だよ! 帽子をとるな!」
「いえ、あなたみたいな人、うちにいたかなと思って……」
「はあ? お前の記憶は三分ともたないのか? それならニワトリの方がまだ色々覚えているだろ」
「む、なんでしょう。ありえない気はしますが、この微妙にむかつく口調は」
今度こそ問答無用で帽子をはぎ取る。かわいそうなくらいの悲鳴を上げた少年は、両手で顔を隠しながらリゼットに罵声を浴びせかける。
「この、非常識公女が! 嫌がってる人間の顔を暴くとか、どんな暴君だよ!」
「いやぁ……だって気になるじゃないですか。どうしてそんなにちっちゃくなっちゃったんですか、クライド師匠」
名を呼ばれて、少年は胸を抑えてうずくまった。夜のように黒い髪だけは以前のままで、少年――クライドはじっとりとした目でリゼットを見上げる。
「どうしてと言われると、説明が難しい。お前、この直前の状況を覚えているか」
「もちろん忘れられるわけないじゃないですか! 何もない空間に落とされて、クライド師匠と一緒に……ってあれ? わたしたち、死んでしまったんですか!?」
「んー……それに近いな」
あっさりとどうにもならない現実を認めるクライドに、リゼットはがっくりと肩を落とす。まさか、あれで終幕だったなんて。こんな風にリゼット・フォン・ソレイユの物語が終わるなんて、誰が想像しただろう。
「そ、そんなぁ! わたしまだ、野望を果たしてもいないのに!」
「なんだ野望って、どうせろくでもないやつだろ」
「ど、どうして皆ろくでもないと言うのでしょうか? 野望はあれです。交易都市ソレル装丁本製造都市化計画!」
「却下」
「な、なんですと!?」
あっさり却下されて、リゼットは脱力して上体を半分に折る。どうして夢というやつは誰にも賛同されないのだろうか。叶わぬ望みに胸を締め付けられていると、クライドが深いため息をついた。
「いや、お前の妄想はどうでもいいんだよ。それよりもこの状況だ」
「状況……ここ、わたしのおうちですよ?」
「そのようだな。なんでソレル大公家が再現されているのかは謎だが、ずっとここに留まっているわけにもいかない。脱出する方法を探さねば」
「脱出? 私たちは死んでいるんじゃないんですか?」
それなのに脱出とは不思議な話だ。リゼットが困惑してクライドの頭をつつくと、彼は邪険にそれを振り払って立ち上がる。それでもクライドの身長はリゼットの肩くらいしかなく、どうにもあの装丁師と同一人物とは思えなかった。
「いや、おそらくだが……『死ぬ一歩手前で止まっている』ようだ」
「ふむ? よくわかりませんけど、生きてはいないけど、死んでもいない、みたいな感じです?」
「それも少し違うんだが、まあ、そんなもんだと思って構わない。どうしてそうなっているかは、本当に想像するしかないが……たぶん、死に至る前の俺とお前の意識と魔力が繋がることにより、この世界が作り出されているんだろう」
「出来ればクライド師匠とは繋がりたくなかったような」
「俺も同じくだよ……。だが、繋がりを得たことにより、俺の意識は回復することができた。この状態なら空間を内側から開いて、現実世界へと意識を帰還させることも可能だ」
クライドの言葉は決して、過分に力強かったりはしない。けれど、不思議とそれ自体が魔法のように、リゼットの心に明かりを灯してくれるようだった。
「生きて帰れるんですか、わたしたち」
「可能性はある。絶対にとは言い切れないけどな。しかし、お前だってここで死ぬつもりはないんだろう?」
死ぬつもりはない。そう告げられて、リゼットはそっとまぶたを閉ざした。確かにどうあっても死ぬつもりはなかった。クライドを助けられなかったとしても、自分を生かす道を選んだように。リゼットには死ねない理由がたくさんありすぎた。
「はい、わたしは死ねませんから。どうすればいいか教えてください、クライド師匠」
リゼットが目を開くと、クライドは不敵な笑みを浮かべていた。この人と一緒なら大丈夫。そう信じられることに疑いなんか持てそうになかった。
「よし、じゃあまず、この世界の核になっているものを探すぞ。ここはお前の記憶の中でもあるから……何か印象に残っていたり、とても大切にしているものはないか?」
「それなら、あれです!」
リゼットは踵を返すと、自分の部屋にある本棚に近づいていく。そこには、特にお気に入りの装丁本が収められている。一日ぶりに見るコレクションの麗しさに、思わずほうっとため息を吐き出す。
「ああ、いつ見ても麗しいわたしの装丁本たち……!」
「で、これのどれなんだ。お前の一番のお気に入りは」
「く、クライド師匠、なんかすごくマイペースになりましたね? えーっと、わたしの一番大切な装丁本は……これです!」
リゼットはためらうことなく本棚の真ん中を指さす。そこには他とは比べようもないほど古くて、ぼろぼろで、そしてすごく汚い装丁本が置かれている。
「ず、ずいぶんぼろぼろだな。手入れしていないのか?」
「してもこの状態なんですよ。本当は修繕に出したいのですが、どうも特殊な装丁本らしく、普通の製本業者では請け負ってくれないんです」
「そりゃそうだろうな。見たところこれはうちの……もしかすると曽祖父の遺作か? だとしたら大公家に献上された魔法装丁って、これのことか……?」
装丁本を見上げて、クライドはぶつぶつと呟きながら考え込んでいる。リゼットは久々に装丁を愛でようと、本に手を伸ばす。だが、その瞬間。
『きゅっ』
「はへっ?」
ぼろぼろの装丁本の端っこから、小さいうさぎっぽいものが顔を出した。真ん丸な目とリゼットの視線がしばし交錯し――そのうさぎは素早く顔を引っ込める。
「えぇ?」
「どうした、変な声出して」
クライドは気づかなかったのだろうか。再び装丁を見つめると、今度は本自体がカタカタと揺れる。さすがにその異変はクライドにも伝わったらしい。ぎょっと目を見開くと、リゼットの腕を叩く。
「おい。お前の装丁本、なんか動いてるぞ」
「は、はい。見ればわかります。な、何で動いているんでしょう」
わけわからない状況に、二人は顔を見合わせる。そうしている間にも装丁本の動きは激しくなり、二人がもう一度視線を当てた途端――。
『きゅっ』
「はっ!?」
驚く二人の前で装丁本は宙を飛び、勢いよく開いた扉から廊下へと飛び出していった。
「…………」
「………………」
沈黙が広がる。リゼットとクライドは視線で語り合う。何だ今の? 何でしょう今の? たぶんあれだろ、あれがきっと問題の核になっている存在で――。
「――ま、待てぇええええっ!」
謎の装丁本VSリゼット&クライド。やたらに騒がしい追いかけっこが始まった。
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