異章「真実のよすがは閉じた目では見えない」
1.「――お前は、だれだ」
小公女は軽やかに道を走っていく。
踊るような足取りは、後ろに続くものに対する配慮など忘れたかのようだった。いや、単についてくることを疑っていないだけか――クライドは内心で苦笑いする。
あんな風に歩ける丈夫な体はとてもうらやましい。何のためらいもなく門扉を叩ける大胆さや社交性も。自分には何一つないもので、たまに見ていると嫌になる。
「クライド師匠! 鉄工所ってここですよね?」
小公女は不意に脚を止めると、目の前を指さす。上がり始めた息を整え、クライドはのろのろと顔を上げた。扉の脇に飾られたプレートには『ソレル鉄工所』の文字が刻まれている。
「そうだな。ここがソレル最大の炉を有する鉄工所だ」
石造りの壁で囲まれた建物は、他と比べても物々しいほど頑丈そうなつくりをしている。中にある炉の火力がそれだけ強いのだろう。鉄製の扉から奥の様子はうかがえないが、ところどころにある窓を見れば、赤々とした光がもれだしている。
「なるほど! じゃあ、とりあえず誰かに声をかけてみましょう! すみませーん!」
「って、おい! いきなりだな! さすがに普通の鍛冶屋とは規模が違う。そうやすやすと中に入れるはずが」
クライドが制止したところで、簡単に止まるようでは小公女とは言えない。彼女は何のためらいもなく扉をたたくと、まるで自分の家のようにノブをひねる。するとまずいことに、施錠されていなかった扉が音を立てて開かれてしまう。
「あれ、開きましたよ?」
「開いたんじゃなくて開けたんだろそれ。鍵かけてないのか? 不用心だな」
「そうですねぇ。まったくもって不用心です。……はっ。もしかして私たちより先に、勝手に入った人が!? まずいです、追いかけないと!」
「どういう発想だよ! もしそうだったとしても、俺達には関わりない話だろ!」
なるべく面倒ごとは避けたいのがクライド本来の思考だ。にもかかわらず、小公女は構わず鉄工所内に突撃していってしまう。取り残される形になったクライドに、魔法装丁の風と水がふわりと寄り添う。
『きゅうん……』
「ん? ……なんだよ、まさかあれを追いかけろって? まったく、お前たちも感化されやすい性質だな」
『クォン!』
宙に浮かんだ水の魔法装丁から、青い小型犬のような化身が顔を出す。明らかに不服そうな様子だが、クライドのためらいを捨てさせるには十分だった。
「仕方ない、あのまま放っておいて何かあったら俺の責任……のような気がしてしまう。追いかけるか……」
自分も大概感化され過ぎだ。苦い笑いを浮かべながらも、クライドの顔は自然と前を向いていた。小公女の消えた扉をくぐり、さらにその先へ。
扉をくぐると、むっとする熱気が押し寄せてきた。設備は稼働中のようだが、不思議と人気は感じられない。だが、その状況に反して、鉄工所中央の高所に設置された炉からは強い熱気と赤い光、そして溶けた鉄の輝きが放たれている。
「炉が稼働している……? 何で誰もいなんだ」
「クライド師匠―! こっちです! こっち!」
楽しげな声に顔を上げれば、小公女が炉の側面に設置された鉄骨の廊下から手を振っている。いつの間にあんな所まで行ったのだろう。行動力に呆れ果てると同時に、やはりそれが少しだけうらやましくもある。
「ばか、なんでそんな高いとこまで行った! 戻ってこい!」
「えー。どうしてですか! せっかくここまで来たんだから、師匠も一緒に見ましょうよ! ちょっと熱いけど、星みたいなのがキラキラしててきれいなんですよ」
「星みたいなの……?」
なんのことだろう。火花とかではないのだとしたら、まさか魔法装丁の発しているものか? 風や水を見上げても、二体の魔法装丁は困惑したように漂うだけだ。いつもながらに彼らはあてにならない。そもそも魔法装丁は曽祖父の制作物だから、その残りかすのような力しか持たないクライドには扱いきれないものなのかもしれない。
「くそ」
誰にともなく毒づいて、クライドは炉に続く階段を上り始める。かつかつと鋼鉄の階段を踏みしめていると、自分がどうしてこんなところにいるのかわからなくなる。何もなければ装丁の仕事をしながら図書館の管理をして、悠々と過ごせているはずだった。
「クライド師匠! はやくはやく!」
小公女が手を振るのを見ていると、思わず張り倒したくなる。こんな状況になっているのは他ならぬあの少女のせいだし、クライドはどちらかというと彼女が巻き起こす嵐に巻き込まれた口だ。ゆえに恨み言くらい言ってもばちは当たらないと思う。だが、彼女も必死に努力して事態を挽回しようとしていることを知っているから、いざ目の前に立つと何も言えなくなる。
理不尽だ。息を切らし階段を上り、毒を吐く。理不尽だと言いつつ、今回の険で最も割に合わない役目を押し付けられたのが小公女だということも理解していた。
小公女は蜘蛛にからめとられた蝶だ。何者かによって魔法装丁の事件に組み込まれた哀れなエキストラ。本来は一番無関係で無害な立ち位置にいたはずなのに、最後には主役級に祭り上げられている。
「クライド師匠、もうちょっとです! がんばってください!」
それなのに彼女は、誰よりもまっすぐに事件へと立ち向かっている。そのことがひどく滑稽で、愚かしくて――それでも人間としてはとてつもなく善良にして最良の部類だとわかっている。こんな怠惰で役立たずの自分にさえ、小公女は手を差し出してくれるのだから。
「息も絶え絶えじゃないですか! しっかりしてください!」
「うるさい。お前みたいに頑丈なやつには、この俺の想いは理解できない」
巨大な炉の脇に設置された廊下の真ん中に倒れ込んで、クライドは浅い息を繰り返した。直線距離ならそこまでの長さはなくとも、階段でぐるぐると遠回りさせられれば自然とこうなる。自身の体力のなさを嘆きつつ、クライドは大きく息を吐いて体を起こす。
「で? 星みたいなのってどこにあるんだ?」
「あ、それなら……炉の奥の方にですね、きらっとしたものが」
小公女は炉を指さす。赤々とした光と溶けた鉄が奇妙な輝きを周囲に投げかけている。炉に近づくだけで恐ろしいまでの熱気が襲ってきて、クライドは一瞬、近づくのを躊躇した。
「よくこんなところを覗けたな、お前……」
「えへへ、これはもうあれです! 根性です! さ、クライド師匠も頑張って!」
「頑張る方向性が違う気がするが」
背後でエールを送ってくる小公女は無視して、クライドは手すりから炉の奥を覗き込む。どろどろとした金属の液体が波打ち、火花がいくつも散る。しかし彼女が言うような星のようなものは見えない。もっと奥だろうか? さらに身を乗り出した、その時だった。
『きゅうぅんっ!』
肩の上で風の化身が強く跳ねた。切羽詰まったその響きに、思わず肩越しに振り返る。するとそこにはこちらに手を伸ばしたまま停止している小公女がいて――。
「――――」
赤い光に照らされ、小公女のふんわりとした金髪も赤銅色に変わる。ほんの少しだけ首をかしげて視線を合わせると、彼女は仮面のようなアルカイックスマイルを浮かべた。
「どうしたんですか、クライドさん」
「………お前は、だれだ」
炎に照らされた小公女は、澄んだ『銀色』の瞳をこちらに向けてくる。クライドはゆっくりと彼女に向き直りながら、わずかばかりの微笑みを浮かべた。
「どうも。初めましてかな、見知らぬ人。俺に何の用だ」
変化は瞬きするより早かった。仮面の笑みを消した小公女の姿をした何者かは、にこりと笑って優雅に礼をした。
「お初にお目にかかります、魔法装丁師殿。僕の名前は『オーレン』。しがない魔法使いの末裔です。あなた様の持つ魔法装丁を頂きに参りました」
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