2.「その願いだけは叶えられない」

 しばらくの間、時が静止したような沈黙が続いていた。

 クライドはじっと、こちらを見つめている銀色の目を眺めていた。限りなく澄んではいるが、まるで何の命も宿らないような――純度だけが高いまなざし。


「ひとつ聞くが」


 口火を切ったのはクライドだった。『オーレン』を自称した存在は、小公女の顔でにこりと笑う。目の前の存在が何であれ、一つだけ確認しなければならないことがある。


「小公女はどこにいる」


 クライドの問いに、銀色の目が大きく見開かれた。続いて聞こえてきたのは、抑えきれない笑い声。『オーレン』はおかしなものを見た時のように、涙を浮かべながら笑う。


「目の前にいるでしょう! 『これ』は小公女リゼットですよ!」

「誰がそんなことを聞いた。俺は『小公女』はどこにいるかって言ったんだ」

「………はぁ、まったくもってつまらないことだ」


 やれやれと肩をすくめ、『オーレン』は冷めた視線をクライドに向けた。どこか馬鹿にしきった様子でこちらを見た銀色の目は、何気ない様子で虚空を眺める。


「そんなにこの少女が大切ですか。自らが守るべき魔法装丁よりも?」

「は? 話の主旨がよくわからないが。小公女の『中身』をどうしたかと聞いている」

「そんなに気になるのですか。まったくもって不可解ですね」

「不可解なのはお前の言ってる内容だよ。話を逸らすな。小公女を出せ」


 クライドの要求は一貫していた。『小公女の無事が確認できなければ話をするつもりはない』――その意思をくみ取ったらしい『オーレン』は、不快そうに眉をひそめながら宙を指さす。


「そこまでおっしゃるなら、お見せしましょう」


 『オーレン』の指差す先に、小さな光が生まれた。それはみるみるうちに透明な結晶となり、クライドの目前で一個のガラス玉となる。


「見えるでしょう? そこに小公女が」


 ガラス玉の奥に、どこかの光景が映り込む。路地にへたり込み、呆然と空を見つめているのはほかでもない――。


「――っ!」

「おっと、触らないでくださいね」


 クライドがガラス球に手を伸ばすと、透明な輝きは逃げるように飛び去っていく。小公女の姿をした『オーレン』は、無造作にガラス球を掴んでにこりと笑う。


「これでおわかりか? 小公女は『ここ』にいると」

「それで……そいつを助ける条件として、魔法装丁をよこせってか」

「物わかりが早い人は好きですよ。そうとも、あなたには選択肢を差し上げましょう。魔法装丁を渡して、小公女を助けるか。小公女を見捨てて、魔法装丁を守るか」


 ガラス球を炉の上で揺らして、『オーレン』は笑う。クライドが断れば、そのガラス玉を炉の中に落とすということか。じっとその手元を見つめ、クライドは静かに首を振る。


「俺を脅してるのか? 無駄なことをする」

「そうでしょうか? あなただって、自分のために人が死ぬのは嫌でしょう」

「人を脅すにしては、随分と善良な考え方だな。オーレンとやら。俺は小公女がどうなろうと知ったことじゃない。だってそうだろ、たかが数日関わっただけの、他人なんだから」


 ゆっくりと通路の上を歩き、クライドは炉の全景が見渡せる最奥まで進む。じりじりと肌を焼く熱は、容易に視界をゆがませる。陽炎のように揺らぐ世界の向こうで、『オーレン』は苦笑いを漏らす。


「情というものがないのですね? あなたの曽祖父、フラメルが聞いたら悲しみますよ」

「知らん。曽祖父は会ったことさえない。だけどな、『こいつら』は違う。俺にとっては唯一、代えがきかない存在だ」


 クライドの言葉に、宙を漂っていた風と水の化身が小さく鳴く。クライドはそれ以上語らず、無言で『オーレン』を、そしてその向こう側の階段を見た。


「つまり、魔法装丁を渡すことはできない、と?」

「ああ。というか、お前だって理解しているだろう。お前自身に魔法装丁を御せるだけの力があるなら、わざわざ俺に交渉を仕掛ける理由がない。つまり、お前自身の力は大したことないってことだ。少なくとも本職の魔法使いではない俺にさえ劣る」

「嫌なことを言いますね。だとしたら何だと?」


 クライドは傲然と顔を上げた。まるですべてを見下すような笑みを浮かべ、いら立ちを募らせる『オーレン』に言い放つ。


「……他人を利用するしか能のない、チキン野郎」

「く、はは! ……後悔で泣きわめけ、装丁師が!」


 『オーレン』は歪んだ笑みを浮かべ、ガラス玉を炉に落とす。きらきらとした輝きは、静かに落下し――そして。


「にゃああぬああああっ! あっついにゃ――!」


 中空に出現した猫がガラス玉を抱え込む。素早く壁まで飛び、そのまま大ジャンプをする。猫はくるくると体を回転させながら虚空を飛んでいく。そして最後に大きく弧を描いて着地した猫は、すました顔で佇むクライドに蹴りを入れた。


「にゃあ! さっきからおいらに気付いてたくせに、何やらすにゃ!」

「良いだろ別に。どうせお前が動くだろうと思ってたから」

「ふざけんなにゃ! わざわざ相手を挑発して何考えてんにゃ!」


 怒り心頭の猫をなだめつつ、クライドは横目で『オーレン』を確認する。小公女の姿をした『それ』は、無表情でこちらをにらみつけていた。


「……は、結局は茶番か……」

「それについて否定する気はないが。こっちだってわざわざお前の思惑に乗ってやる理由はない」


 ガラス玉を猫に任せ、クライドは靴音を鳴らしながら『オーレン』の前に立つ。あくまでも傲慢に、出来る限り不公平に。装丁師クライドは現実を相手に突き付ける。


「お前程度では魔法装丁を手にすることもできない。あきらめるんだな」

「僕がどうしてそれに従うと思う? ふざけるな」

「ふざけているのはお前の方だろう、オーレンとやら。過ぎたる力は災いにしかならない。お前が何を思って魔法装丁を欲しているかは知らないが、その願いだけは叶えられない」


 クライドの言葉がどれほど冷たく聞こえようと、それが真実だった。魔法装丁の力は決して外に出していいものではない。言外にそう込めると、『オーレン』は無言でクライドの顔を見つめ、冷めた顔で薄く笑った。


「力など使わなければ無意味だ。お前の言葉は何の拘束力もない――ただの虚言だ」


 『オーレン』は一歩後ろに下がると、炉へ続く最奥に向かって走り出した。何をするつもりか。クライドは顔をしかめると『小公女』の背を追う。


「何をするつもりだ」

「お前ほどの力があれば、誰でも守れるのだろう? だったらそれを見せてみろ――クライド!」


 『オーレン』はすっとまぶたを閉ざす。瞬間、『小公女』の体から力が抜け、後ろへと倒れ込む。背後は燃え滾る炉の上――クライドは目を見開き、叫ぶ。


「――リゼットっ!」


 落ちていくリゼットを取り巻くように炎が燃え上がる。高い鳴き声が響き、鮮烈なる紅の輝きをまとい、炎の鳥が舞い降りてきた――。

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