5.猛き青鱗の竜は虚空に踊る
「きゃあああっ!」「うにゃああ!」
リゼットたちは叫びを上げながら噴水前から撤退する。巨大な波が石畳を叩き、大きな音を響かせ周囲を水浸しにした。
「い、いきなりの攻撃ですね……! ちょっと性格悪くないですか!?」
「水だからな……若干陰湿な部分はあるかもしれん」
リゼットの鞄を街路樹に引っ掛け、クライドは鋭い視線を水の化身に向ける。青い竜はリゼットたちを追い散らしたことに満足したのだろう。青い竜は満足げにサファイアの目を細め、高い鳴き声を上げた。
「あの竜、すごく楽しそうですね。一撃くわえたら大人しくなるでしょうか」
「おい、あの質量の水を殴ってどうにかなると思っているのか。取り込まれて溺死するのがオチだぞ」
「じゃあどうするんです? このままじゃ本当に大惨事ですよ……!」
リゼットが視線を動かすと、周囲の屋台の店主や客たちが呆然とした様子で大噴水を眺めている。まさか竜なんてものが出てくるとは想像もしなかったのだろう。中には慌てて逃げ出そうとして転んでしまった人もいた。
「お、おねえちゃん……こ、こわいよ。あれ、やっつけられる?」
リマラが大きな目に涙をためて、リゼットにしがみついてくる。リマラの母親も娘の肩に手を添えたまま、不安そうに噴水を見つめていた。
「大丈夫ですよ、リマラ。このお兄さんが何とかしてくれるはずです!」
力強く答えを返したリゼットは、当然のようにクライドを見た。装丁の主たるクライドならば、何かしら方策を思いつくに違いない
。
「は? ……あ、ああ、まあ……。考えがないわけではないが」
唐突に話を向けられたクライドは一度硬直し、すぐさまため息交じりに肩をすくめた。その間にも、水の竜は大噴水から周囲に波をぶちまけ続けている。もうすでに大騒ぎだが、これ以上被害が広がる前に手を打たなければ、リゼットたちの手に負えなくなってしまう。
「だったらクライド師匠、すぐに指示を! わたしにできることなら何でもしますよ!」
「ん……うーん。理論上は可能なんだが、な。上手くいくかどうか」
「ここで突っ立っていても解決しません! 出来ることがあるなら最善を尽くすべきです! クライド師匠だって、あの子を取り戻したいんでしょう!?」
煮え切らない態度のクライドに業を煮やし、リゼットは男の襟首をつかんで揺さぶった。
早くしなければならない理由は、事態の収拾がつかなくなる以外にもある。リゼットは焦りと共に空を見上げた。この状況を解決できないとわかれば、『大公』が手を差し向けてくるかもしれない。そうなればこの冒険も即終了だ。リゼットは唇を噛みしめ、クライドを見上げる。
「聞いてください、クライド師匠。もしここで何もできなければ、この件はおそらく……いえ、確実に大公家によって処理されます。そうなれば師匠の手に魔法装丁は戻らないかもしれない」
「だろうな。先ごろの騒ぎに関しても、とっくに調査が入っているはずだろう。にもかかわらず、何の沙汰もないということは、つまりお前が……」
クライドの夜色をした瞳がリゼットを見下ろす。装丁師が言わんとするところは、リゼットが一番よくわかっている。問いに対する答えは笑顔だけにして、小公女は襟から手を離すと優雅に一礼した。
「どうか決断あそばせ。わたくし――小公女ことリゼット・フォン・ソレイユは、最後まであなたさまの味方でございます」
「……っ! ああ、もう。わかったよ!」
観念したように頭をかき回し、クライドは鞄から顔を出している風の化身に指を突き付けた。案の定びくりと首をすくめた生き物に向かって、装丁師は鋭い声で命じる。
「来い、『風の烙印』! 造主フラメルが直系、クライドが命ずる。空気を凝固させろ――『Congelatio』――!」
コンゲラーティオー。その単語に反応して、風の化身の全身が緑の光に包まれる。同時に周囲の空気が一気に圧縮され、ぱりぱりと音を立てて霜が降り始めた。
「クライド師匠、これは一体どいう状況ですか!」
「説明は後だ! とにかくお前は酒を集めてこい! めちゃくちゃアルコール度数の高いやつをたくさん!」
「お、お酒ですか!? まさか諦めて酒盛りですか!?」
「違わい! いいから今は俺を信じ……なくてもいいから! 言うとおりにしてくれ!」
気温の低下に伴い、湿った服が冷たくなっていく。リゼットはみを震わせると、頬を叩いて気分を切り替える。クライドがやる気を出したなら、それを援護しない手はない!
「よし! じゃあ屋台を回ってお酒を貰ってきましょう! 猫! 手伝ってください!」
「にゃ、にゃあ!? オイラもかよ!」
「ま、まっておねえちゃん!」
急ぎ足で走り出そうとしたリゼットのスカートをリマラが掴む。ちょっと困って振り返ると、大きな茶色の目が決意に満ち溢れた様子で輝いている。リゼットが困惑して首を傾げた時、横手からリマラの母親が歩み出てきた。
「お待ちなさい、私たちもお手伝いしますわ。お嬢さんだけに走らせるわけにはいかないものね」
「あ、ありがとうございます……! じゃ、じゃあ、わたしたちは右手から回るので、お二人は向こうからお願いします!」
三人と一匹はそれぞれにうなずきあうと、自分たちの使命を果たすために走り出す。リゼットがちらりと宙を見上げると、竜に対峙するように白い結晶が浮かび上がっている。冷気をまとうそれは、一見氷のようにも見えたが――それよりもずっと温度が低そうだった。
それはともかく、今は酒だ。先行する猫に続いて屋台の方へ近づくと、一人の男性が慌てた様子で振り返った。
「な、なんだいあんた。こんな状況で食事かい!?」
「い、いえ、そうではなく。実はですね、すごくアルコール度数が高いお酒を分けて頂きたくて!」
「はあ? なんでまたそんな。……だ、だめだ駄目だ! わけわかんないこと言ってないで、おうちに帰んなお嬢ちゃん! こ、こんな時に変なことを言わないでくれ」
邪険に手を振り、屋台の主人は急いで片づけを始める。取りつく島のない様子に、リゼットは困惑して周囲を見渡す。どの屋台も混乱の極みにあり、少女の言葉に耳を傾ける余裕はなさそうだった。
「困りましたね、みんな聞いてもくれないなんて」
「にゃ。仕方ないにゃ。もうこれはかっぱらうしかないにゃ!」
「だ、だめですよ猫! そんなことしちゃ……」
屋台に特攻をかけようとする猫を止めても、みんなが酒を出してくれるわけではない。このままでは事態が悪化する一方だ。リゼットが必死に助けを求める視線を投げかけると、そっと誰かの手が肩に置かれた。
「リゼットさん」
聞きなれた声が耳に届いて、リゼットは勢いよく振り返った。後ろに立っていたのは、銀髪の青年――古書店店主であるオーレンだった。
「お、オーレンさん! どうしてここに」
「僕は私的な仕入れがあって、商業区に来てたんだよ。リゼットさんは今何を? なんだかすごいことになっているみたいだけども」
「え、ええとですね。話せば長くなるのですが……と、とにかく今はどうしても、強いお酒がたくさん必要でして!」
「お酒?」
オーレンは顎に手を当て、周りに目を走らせた。思案するように屋台を観察したのち、銀色の目は再びリゼットに据えられる。
「さすがに一個人でこの場にある酒を集めるのは難しそうだね。どうしても必要なのかい」
「どうしてもです。そっちで暴れている竜を何とかするために必要でして」
「だったら――『小公女』の名を出すしかないね」
当然のように言い切られて、リゼットは言葉を失った。そう、今ここで人の心をまとめるには象徴となるものが必要。わかってはいたが、胸の中にわいた気持ちは苦い。
「あまり、小公女の名前で人を動かしたくはないのですが……」
「強制はしないよ。ただ、事態を打開するには強い言葉が必要な時もある」
「……そうですね」
再び水柱が高く打ち上げられる。あの場所ではクライドが奮闘しているのだ。ここでリゼットが立ち止まる理由はない。
「――みなさん! 聞いてください!」
リゼットは声を張り上げる。小公女としての声音に、人々は戸惑いながらも動きを止める。『小公女』は決然とした表情で前を向き、みなに語り掛け始めた。
「わたくしはソレル大公が一子、リゼット・フォン・ソレイユです! いま、この場所に危機が迫っています。皆様に不安を与えてしまっていること、大公家の一員として謝罪いたします。皆様の日々の平安を守るため、この小公女、出来る限り尽力したいと思っております」
人々は足を止め、不安そうな表情でリゼットを見つめる。本当に小公女様なのか? そんな視線に対しても、リゼットは鷹揚な微笑みで答える。
「けれど、残念ながら、わたくしひとりの力だけでは解決できないことがあります! この噴水公園を襲っている事態を収拾するために、皆様の協力をお願いします!」
リゼットの言葉に皆、戸惑いながらも顔を見合わせる。まだ押しが足りないか。リゼットがもう一度声を上げようとした時、一人の女性が前へと踏み出し一礼する。
「小公女様。あなた様の想い、受け取りました。私たちはどうすればいいでしょう?」
その言葉は、暗雲に差した一条の光だった。リゼットは何度もうなずき、女性に向かって一歩踏み出す。
「ありがとうございます。それではすぐに、アルコール度数の高いお酒を集めてもらえますか?」
「わかりました! ……さあ、みんな! 小公女様のご命令だよ! 急ぎな!」
女性が手を叩くと、人々は素早く行動を開始する。慌ただしく動き始めた時間に、リゼットはほっと息を吐き出す。するとオーレンが歩み寄り、ねぎらうように肩を叩く。
「頑張ったね。お疲れ様」
「オーレンさん……! と、とにかくわたし、お酒をまとめたら行ってきます! またのちほど!」
オーレンに手を振り、リゼットはその場をあとにする。その間にも酒は集まり始め、クライドの背後に積まれていく。どんどん増えていく酒瓶にリゼットが満足していると、いつの間にか戻ってきた猫がひげをそよがせた。
「にゃ、なんとかなったにゃ?」
「ええ、っていうか。猫、どこにいたんです?」
「にゃあ。嫌な気配がしたから隠れてただけにゃ」
そんな会話の間にも、続々と酒が集まっていく。途中、大量の酒を確保してきたリマラ達が戻ってきて、ついにクライドは酒の山に埋もれることとなった。
「おいこら、誰が俺の周りに積めと言った」
「え? クライド師匠が使うんでしょ? だったら近い方がいいじゃないですか」
「……ああ、もう、ああいえばこう……とにかく、準備は整った」
竜が宙を漂う白い結晶に攻撃を仕掛ける。どうやらあの結晶が目障りらしく、竜はリゼットたちには目もくれない。もしかすると、そもそも人間など歯牙にもかけていないのかもしれないが。
「いいか、これか空気を凝固させた結晶と酒を『水の烙印』にぶつける。そうしたらお前は。あいつに突っ込んでできる限り弱らせてくれ。とにかく、俺が近づける隙を作ってくれればいい」
クライドの意図を察したのか、竜が咆哮を上げる。水柱が複数立ち上ったかと思えば、宙を漂う白い結晶に向かって水の矢が飛んでいく。当たれば岩に穴くらいはあけられそうな速度で飛んだ水の矢は、風の化身の一声で目標を失い地面へと落ちる。
「あんな状況で突っ込めとか、クライド師匠は鬼ですね!」
「鬼で結構。俺と風が攻撃をくわえたら、やつの動きもさすがに鈍るはず。すべてはお前の働きにかかってるんだからな。頼んだぞ……小公女!」
呼びかけると同時に、クライドは指先を水の竜に向ける。瞬時に強風が巻き起こり、クライドの周囲に積まれた酒類が上空へと巻き上げられていく。太陽の光を反射して光り輝く酒瓶は、一点に集まったかと思えば、次の瞬間には一気に地上へと降下する。
『きゅううーん』
風の化身が鳴き、相対する竜が激しく尾を振り舞わず。宙に浮いていた白い結晶も勢いよく竜へと向かい――刹那、酒瓶の群れと激突した。
「……あ……!」
白い結晶と酒が接触した時だった。異常な冷気が噴水とその周辺にまき散らされる。氷河にでも放り込まれたような寒さに、その場にいた全員が小さな叫びをあげた。
「よし……! 風! まき散らせ!」
クライドの声に従い、爆風が絶対零度の空気を拡散させる。リゼットたちの視線の先でぱりぱりと音を立てて噴水が凍り、竜もまた青さを失い白く変わっていく。
そして訪れる静寂。水底よりも冷たい空気が周囲を凍らせていた。リゼットは凍り付きかけた髪を震わせ、一歩先に踏み出す。
「行きます。ここまで来たなら、やることは一つです!」
リゼットは走り出す。全身は冷え切り、指先の感覚も失われかけていた。それでも小公女は前を向き、強大な竜へと戦いを挑む。
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