4.第二の魔法装丁、『水の烙印』現る
あっという間の出来事だった。
リゼットたちが呆然と見つめる先で、水面は元の静寂を取り戻す。しかし、リマラが再び叫んだことで、リゼットは我に返り噴水へと駆け寄った。
「猫? ……ねこ! どこですか!」
噴水を覗き込んでも『底』は見えない。深くて暗い水が静かに漂うだけだ。リゼットは猫を呼びながら水に手を突っ込む。いくら大噴水だからと言って、水底が見えないほど深いはずがない!
「猫……! だめです、水の底にすら手が届きません!」
「おそらくこれは……『水の烙印』の仕業だ。やつめ、大噴水を都合の良いように使っているな。たとえ相手が水だろうが、猫がそう簡単にやられるとは思わないが」
あとから歩んできたクライドは、噴水の中を覗き込む。それでも猫の姿は現れてこない。これでは一刻も猶予もないのではないか――?
「クライド師匠、鞄をお願いします!」
鞄をぶん投げて渡すと、クライドは見事にひっくり返る。リスっぽい生き物が驚いて飛び出し、リゼットに向かって一声鳴く。
その間にリゼットはスカートをたくし上げ、深い水の底を見つめる。どれくらい深いかは不明だが、行かなければ猫が戻って来られない。
「だいじょーぶ! ちょっくら行ってきますよ!」
「って、おい待てこら! ま、まさかお前!」
不安そうな面々を振り返り、リゼットはにっこりと笑ってみせた。さて、ここからは小公女の一大勝負。大きく息を吸い込むと、勢いよく噴水の中へと飛び込んだ。
外の音が遮られ、胸をかき乱されるような静寂が広がる。ゆっくりと水底へ向かって泳ぎながら、リゼットは不可解な思いに囚われた。最初から分かっていたことだが、この水はおかしい。
『ねこーねこー! どこですかー!』
心の中で呼びかけても、答えは返らない。上から差し込んでくる光は柔らかだが、まとわりつく水温は冷え切っている。急いで探さなければ、二次遭難してしまう。
周囲を確認しつつ、さらに深く潜る。徐々に周囲が暗くなり、視界はどんどん悪くなっていく。まだ息はもちそうだが、のんびりしている暇はなさそうだった。
『ねこー!』
スカートの裾が脚にまとわりつく。あの状況で脱ぐわけにもいかなかったが、ちょっとだけ後悔がよぎる。さすがに衆目の前で下着姿になる公女は外聞が良くないけれども。
水をかく音だけが鼓膜を揺らす。リゼットは潜るのをやめ、周りに視線を投げかけた。目を凝らしても、猫の姿は見えない。もっと深い場所に行ってしまったのだろうか。
『猫……』
リゼットの胸にじわじわと不安がわき上がってくる。猫は普通の猫ではないとはいえ、長い時間こんな水の中にいたら無事では済まないだろう。どうすればいい――ぐっと奥歯を噛みしめた、その時だった。
『きゅうーん』
耳の奥で『風の烙印』の声が響いた。驚きで目を見開くリゼットの前に、輝く光の塊が現れる。夜の星を集めたような輝きは、何度か揺れた後、素早く水の底へと潜ってく。
『もしかして、この先に猫が?』
水を蹴り、リゼットは光を追いかける。だんだんと水が重さを増していくが、リゼットは怯まない。何度も心の中で猫を呼び続け、そして。
「っ!」
光がくるくると回転する。ひときわ暗い水の中に猫が漂っていた。リゼットが近づいても、猫はぐったりとしたまま目を開かない。これは一刻の猶予もない!
『猫、すぐに外に連れて行ってあげますからね!』
猫を抱え、リゼットは急いで上昇していく。背負った時は気づかなかったが、猫の体は本当に小さくて弱々しい。こんな壊れ物のような存在だったなんて、普段は想いもしなかった。
『しっかり、もうすぐですよ!』
猫は何も答えない。そのことがどうしても信じられなくて、必死に水面を目指す。あと少し。ほんの手のひら一つ分の距離で、外へと届く。
「――っ!?」
浮き上がろうとした刹那、何かに引き留められた。驚いて下を見れば、脚をつかむ薄青い『手』が見える。それは強い力でリゼットを、そして猫を再び水底へと引き込んでいく。
『な、なに!? このままじゃわたしたち……!』
抗おうにも足場のない水の中だ。引きずられるままにリゼットは沈んでいく。混乱しながら腕をばたつかせたとき、力を失った猫の姿が目に入った。
『……こうなったら!』
全身に力をいきわたらせ、リゼットは猫を水面に向かって押し上げた。猫はふわりと浮上し、想定通り水面に到達する。それを見届けたリゼットは、大きな泡を吐き出す。
『まずいですねぇ。さすがに限界かもしれません』
肺の空気はもう、ほぼ空だった。ひとまず猫を助ける目的は果たせたので、まあいいか。にこりと笑ってまぶたを下ろしたリゼットは、静かに水底へと沈んで――。
「――ば、ばかやろう! なに勝手に満足して力尽きてんだ!」
力強い腕がリゼットを引き戻した。水から解放された肺は大きく空気を吸い込み、反動で強くせき込んでしまう。噴水の縁でへたり込んだリゼットは、虚ろな視線を周囲に投げかけた。
「あれ、わたし生きてます?」
「お、おねえちゃぁあああん! よかったよぉおお!」
リマラとその母親が涙目でリゼットを抱きしめてくる。そんな大げさに喜んでくれるほどのことだったろうか。まだ少しかすんでいる目で、リゼットは猫を探す。
「ねこ……猫は無事です?」
「ああ、問題ない。ほら」
「う、にゃ」
クライドに促され、猫がよろよろと近づいてきた。茶色いふかふかな毛並みは水でぐっしょりとしていたが、金色の目はいつもの輝きを取り戻している。ほっと息を吐いたリゼットに、猫はもじもじとしながら尻尾を揺らす。
「猫、無事でよかった」
「うんにゃ……べ、別においらに助けは必要なかったにゃ! お前は普通の人間なのに無茶して……! 死んじゃったらどうするつもりにゃ! ほんとにバカなやつにゃ!」
「そうですね。でも、助けられて安心しましたよ」
「にゃ、にゃあ……バカに付ける薬はないにゃ。どうしようもないにゃ!」
ねこは呆れ果てたようにそっぽをむく。リゼットは少し困ってクライドに目を向ける。
「クライド師匠」
「俺も猫と同意見だ。全く無茶をする」
「そんなぁ」
「だがま、お前の行為は人間として非常に健全で尊いものだったよ。ほら、猫」
クライドに呼び掛けられ、猫は尻尾を軽く上下させる。なんだかとても不服そうな様子だ。しかし不機嫌そうな顔でひげを下に下げると、リゼットに向かって一言。
「……ありがとにゃ」
「え? 今なんて」
「なななな、何でもないにゃ! 聞こえたなったら存在しない言葉にゃ!」
「えー、そんなこと言わないでくださいよ! ぜひもう一回!」
「無理にゃ駄目だにゃ! う、うにゃあああ~ん」
リゼットに抱きつかれた猫は、耳を伏せてだらーんとなった。リマラと母親はほほえましそうに一人と一匹を見つめている。何にしても無事でよかった。リゼットが安堵の息を吐くと、視界の端で何かが煌めいた。
「え……」
『きゅううーん』
鞄から顔を出した風が高く鳴く。と、同時に噴水から巨大な水柱が上がる。一本だけでなく、いくつもいくつも!
「な、何事ですか!」
「くそ、猫を取り込み損ねたから出てきやがったな!」
クライドがリゼットたちの前に立つ。装丁師のいつも以上に険しい表情で、リゼットにも楽観できる事態ではないと理解できた。
「クライド師匠……! これってまさか」
「ああ、そのまさかだよ」
噴水の中心部で天を貫くほどのしぶきが上がる。激しい水は散ることなく一点に集まり、巨大な水の塊と化す。それは見る見るうちに異形の生き物の姿をとり始め、青々と輝くサファイアの瞳がリゼットたちをにらみつける。
「やっとお出ましか。いい加減うちに帰るぞ――『水の烙印』!」
クォオオオオオン。耳鳴りがするほどの咆哮を上げた青く澄んだ竜――魔法装丁『水の烙印』は、明確な敵意をもって巨大な波をこちらに向かってぶつけてきた。
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