3.水底の静寂と騒がしい物語
交易市場より東に歩くと、巨大な水柱が立ち上る光景を目にすることができる。
それは交易都市ソレルの名物ともなっている『大噴水』の水柱だ。南に巨大な湖を有するこの街は、水資源も豊富なため、このような規模の噴水を作り出せる。少し斜に構えた言い方をすれば、それだけ財政的に余裕があるということの証左でもあった。
「よっ、と! さすがにクライド師匠、重いですねぇ」
リゼットとリマラの母親の二人でクライドを運び込んだのは、噴水公園の側にある芝生の上だった。ここならば道の真ん中よりは人の往来も少ない。一仕事終えたリゼットは、ほっと息をついてその場に腰を下ろした。
大噴水のしぶきが空気を冷やしているのか、リゼットたちのいる木陰には涼しい風が流れている。午後を過ぎて徐々に夕刻が近づいているせいもあるだろう。見上げた空に浮かぶ太陽は、少しずつ西へと遠ざかりつつあった。
「どうです? 少しは気分、マシになりました?」
「ああ……さっきよりはな。手間かけさせた。そちらの方にも」
公園の芝生に倒れ込んだクライドは、顔を手で覆いながらも言葉を返す。いつもの険が鳴りを潜めた弱々しい声音は、彼の疲弊ぶりを如実に表していた。リゼットがちょっと不安に思って黒いジャケットの袖を引っ張ると、条件反射のように振り払われる。
「む、かわいくない」
「ふふ、仲良しなのね。二人とも、とってもお似合いだわ」
リマラの母親はほほえましげにリゼットたちを見つめてくる。仲良し、と言われると否定の言葉しか浮かんでこないのだが、外から見るとそんな風に見えるのだろうか。
横でクライドがせき込んでいるのを無視して、リゼットは鼻にしわを寄せながら訂正を加える。
「え、そんな風に見えます? クライド師匠、わたしのこと大嫌いですから! それにお似合いってあれです? 挑みかかる猛獣VS迎え撃つ小動物的な話です?」
「あらあら、そんなに激しい関係なの? おばさん、びっくりしちゃうわー」
「ど、どういう認識の齟齬だよ! 俺とこの女はそんな仲じゃないし、ましてやこいつは俺のこと、装丁製造機くらいにしか思ってないぞ!」
互いの認識を主張しあう謎の状況を、リマラの母親はにこにこと見つめるだけだ。しばらくの間、リゼットとクライドは互いを罵りあっていたが収拾がつくはずもなく。
「……余計疲れた。もう帰りてぇ」
「む、今更ですか? すべてはクライド師匠が軟弱だからいけないんですよ。あの風の日の勇ましさはどこに行ったんです?」
「そんなの幻想だ幻想。お前は幻を見たんだ……」
「クライド師匠って、実は戦いには向いてないんじゃ……」
「お前みたいに魔法装丁ぶん殴って倒す戦闘力保持者の方がよっぽどおかしいんだよ!」
などなど言葉は尽きないが、リマラの母親の優しい視線を前にした二人は沈黙を選ぶ。
そんな微妙な空気の中、大噴水の前でリマラと猫が走り回っている。猫が逃げ、リマラが追いかける。一見楽しそうな光景を眺めながら、リゼットはふと首をかしげる。
「あれ、みんな不思議に思わないんですかね? 猫はどう見ても二足歩行なのに」
「普通の人間の目には、人間の子供に見えているはずなんだが……やはりお前、ちょっと異常だな」
「ちょっと異常ってなんか聞き捨てならないですけども。単にわたしがちょっと特別ってことですよね!」
出来る限り、どんなことでも前向きにとらえようとするのがリゼットだった。クライドは手を顔から外すと、どこかつまらなげな目を小公女に向けた。
「少しくらい傷ついたりしないのか。恐ろしく強靭な精神力だな。感服するよ」
「ふっふー。そりゃ、クライド師匠は性格悪くて、根が暗いのはわかってますからね! いちいち真に受けてたらこっちの身が持ちません!」
「こ、こいつ……師匠呼ばわりするくせにその認識とは……。ま、まぁいい。それより、魔法装丁の反応に変化はあったか」
上体を起こしたクライドは、疲労のにじむ顔でリゼットを見つめる。魔法装丁『風の烙印』の化身たるリスっぽい生き物は、鞄から顔を半分出すと鼻をひくひくさせた。
「何かは感じているみたいですね。少し落ち着かない様子です」
「ふむ。確か、光が飛んで行った方向はこの周辺のはず。このあたりを探してみるか」
「探すって……このどこかに装丁本が落ちているってことです?」
「どうだかな。このあたりは人が多い。誰かの『願い』に影響されていたら、すでに装丁本以外の姿になっているかもしれない。そうなると、さっき飛んで行った光の塊を目印にするしかなくなる」
装丁本を見つけるだけなら楽だっただろうに、話は簡単ではないらしい。立ち上がったクライドに続き、リゼットも腰を上げる。探索の舞台はこの噴水公園。さて、一体どうなることやら。
「あら、もう大丈夫なの? あと少しくらい休んだら?」
「いえ、もう十分だ。気遣い感謝する。探しているものがあるので、ここで失礼する」
「あらあらそうなの。だったら、私たちもお手伝いするわよ?」
「い、いや……そこまでしていただくわけには」
妙に押しの強いリマラの母親の言葉に、クライドは珍しくたじろぐ。どうやら不遜な装丁師も年上の女性には弱いらしい。思わずリゼットがにやけてしまうと、唐突に変な叫び声が聞こえてきた。
「ぎ、ぎにゃあああああ――――!」
猫の声だ。そう理解して大噴水の方を見る。すると、噴水の縁で両手をぐるぐる回している猫の姿が映り込む。一体どうしたのか。尋常ではない様子に一歩踏み出した時だった。
「にゃあああ!」
「猫ちゃんぁああん!」
リマラの叫びが響き渡る。その瞬間、噴水から巨大な『手』が現れ、猫をつかむとそのまま水底へと引きずり込んだ。
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