6.『水の烙印』封印戦

 空気を満たした尋常ではない冷気に、吐き出す息は白く変わっていた。


 リゼットは霜の降りた地面を駆け、竜へと接近する。クライドの策略によって凍り付いた噴水は、水柱一つ上げられずに固まっていた。これならば拳くらいは通用するかもしれない。氷の床と化した水面に立ったリゼットは、試しにそばの氷柱を殴りつける。


「……なるほど」


 果たして、軽い音を立てて氷柱は崩れ落ちた。もともとの材質が水だとは言え、魔力の通ったものだ。魔法を無効化して打ち砕くリゼットの拳に耐えられるわけもない。


 それならば、あの時の風と同じく、叩けば竜も無効化できるだろう。拳に力を込めて水の化身を見上げると、怒りに染まったサファイアの輝きと目が合った。


「え……」


 ぞわり、背中に悪寒が走る。リゼットは反射的に数歩下がった。その瞬間――。


『クォオオオオオオォン!』


 無数の氷柱が爆ぜ、いくつもの氷刃が浮かび上がる。氷と化した竜は、敵であるリゼットをにらむ。動くことさえままならなくとも、竜は全力で抵抗しようとしている!


「仕方ないですね! お相手いたしましょう!」


 リゼットの言葉が終わるよりも早く、宙に浮かんでいた氷の刃が足元を貫いた。せっかちな竜は口上など聞くつもりもないのだろう。丸腰の少女を串刺しにしようと氷の刃を放ち始める。


「っ! さすがにこれは!」


 氷の上でステップを踏みながら、リゼットは襲い来る攻撃をかわし続ける。だが、あまりにも氷の数が多い。いくつかは被弾し、スカートや袖に穴が開く。


「こうなったら……!」


 逃げの一手ではじり貧にしかならない。瞬時に作戦を変更し、地面に落ちた氷塊を手に取る。氷の攻撃をかわしつつ、一瞬の間隙を縫って塊を竜にぶつけていく。


「どんどん行きますよ!」


 リゼットが反撃してくるとは思わなかったのか。投げつけられた氷塊に身を削られ、竜は叫びをあげた。魔法装丁を苦しめるつもりは毛頭ないが、こちらも命がかかっている。心にある罪悪感を振り切るため、リゼットは氷塊を投げつけ続ける。


 だが、これでは埒が明かないのも事実――視線を周りに投げかけると、一本だけ割れずに残っている酒瓶が見えた。近づいて拾ってみれば、『魔王殺し』の文字が輝く。


「ほほう、これはこれは」


 リゼットは大きな瓶を抱えなおし、再び竜に向き直った。氷塊の攻撃によって、竜の力は確実にそがれている。あともう少し。なにか強烈な一撃があれば、完全な隙を作れるはず。そう考え顔を上げたとき、視界の端を黒い色が駆け抜けていくのが見えた。


「そうですね。そろそろ頃合いですか」


 息を吸い込めば、冷たさで肺がひりひりする。それでもリゼットは瓶を構え、竜に一歩ずつ近づいていく。氷の攻撃は数こそ多いものの、始めの鋭さは失われていた。片手で氷のかけらを弾きながら、リゼットは前へと進む。


『クォオオオオン!』


 竜は身動きの取れない体で咆哮する。怒りと苦痛に彩られたサファイアがリゼットをにらみ、同時に氷のかけらが集結し、巨大な塊を形成していく。


「嫌ですよね。苦しいのもつらいのも……だけど、悪いことはしちゃだめなんですよ」


 浮かび上がった氷塊は、リゼットなど容易くつぶしてしまいそうだった。だが、リゼットは怯まない。まっすぐ前を見たまま、酒瓶を構える。


「行きますよ!」


 竜が鳴き、リゼットは走る。落下する氷塊の下を、身を倒して滑ることでかわしていく。氷の床を滑りながら、リゼットは酒瓶を掲げる。


「きっついの! 食らってくさい!」


 竜はすぐ目前。リゼットは飛ぶようにして跳ね起き、鋭い動きで酒瓶を頭上へと放り投げた。


『ク、ォオオオオオオオオン!』


 酒瓶は竜の鼻頭に当たって砕け散った。高濃度のアルコールが両目を襲い、竜は悲痛な叫びをあげる。その様子に若干心を痛めながらも、リゼットはその背後にいるはずの人に向かって呼びかける。


「隙は作りましたよ! 今です、クライド師匠!」

「よくやった小公女!」


 背後から駆け出してきたクライドは、つんのめりながらも竜の体に手を当てる。すると竜は叫ぶのをやめ、静かに頭を垂れた。青白い光が足元から浮かび上がり、ゆっくりとム図の化身の姿がほどけていく。


「さあ、今こそ戻るときが来た。永き契約の鎖に戻られよ――『Reverti(帰還)』――」


 クライドが告げた瞬間、青い輝きと共に氷が砕け散った。頭上を見上げれば、静かに水の色をまとった装丁本が漂っている。


「よし『水の烙印』。こちらに」


 魔法装丁の主が手を伸ばす。するとお約束のように装丁本は勢い良く逃げていく。唖然とした表情のクライドは、まるで機械仕掛けの人形のようにリゼットを見た。


「あいつ、何で逃げるんだ」

「私は知りませんよ? というか……おーい、水さん! こっちこっちです!」


 リゼットが呼べば『水の烙印は』は恐る恐る近づき、腕の中にするりと収まった。それだけでもクライドには意味不明だったのだろう。頭を抱えた装丁師は、涙目で自らの魔法装丁をにらみつける。


「くそ、風に続き水まで……な、なんでなんだよ。俺の何が問題だと?」

「えーと、それはともかく! みんなのところに戻りましょう! ここは寒いですしね。ね? クライド師匠!」


 魔法装丁に関する現実を、今追及したところで何も解決はしない。言外にそう込めれば、クライドはのろのろと元来た道を戻り始める。疲労で今にも倒れそうな様子に、リゼットは苦笑いしながらも背を叩く。


「しっかりしてください! まだ先はあるんですよね?」

「あ、ああ……まあ、そうだな。まだこれで終わりじゃない。俺は魔法装丁に嫌われているわけじゃ――」


 ――ない。そう言ってクライドが両腕を振り上げた時だった。


 ぴしり、足元で何か音がする。異変を察知したリゼットが横へ飛んだ瞬間、ばきばきと音を立てて氷の床が割れた。


「へっ」


 間抜けな声を残し、クライドの姿が消える。盛大な水しぶきが上がり、リゼットはクライドが沈んだ水底を呆然と眺めた。


「クライド師匠……?」


 さすがにこの幕切れはちょっとひどいのではないか。ぼんやりとそう考えたリゼットの前で、黒い装丁師が白目をむいたまま、ぷかりと浮かんできた。

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