6.暴走風域、突破作戦

 路地から転がり出たリゼットは、叩きつけるような風にひっくり返った。


「! な、なんですかこの風……!?」


 すぐ脇に生えた街路樹がばきばきと音を立てる。今にもへし折れそうな曲がり方に、リゼットは慌てて壁際に避難した。


 少し落ち着いて周囲を見れば、激しい風が大小さまざまなものを巻き込んで渦を巻いている。葉っぱやら枝やら、紙くずやバケツ、大物はどこかの店の看板など。それらがぐるぐると道を横断しているものだから、いつ何時けが人が出てもおかしくない状況だった。


「一体どういう状況……と、とにかくクライドさんを探さないと」


 強い風は古書街から流れてきている。リゼットは意を決し、壁際から飛び出すと勢いよく駆けだした。髪を後ろに持っていかれそうになりながらも、リゼットが街区を越えたその時だった。


「うわあああん! こわいよ、助けて!」

「リゼットさん!」


 風の向こうから聞き覚えのある声が響く。手で顔を守りながら視線を巡らせると、道の真ん中で動けなくなっている銀色の髪の男性と子供の姿が見えた。


「……オーレンさん!?」


 風に阻まれ逃げ出せなくなっているのは、オーレンと幼い女の子だった。


 慌てて近づこうとするものの、風が壁のようになって進むことができない。必死に手を伸ばした瞬間、腕に風の塊が命中した。


「きゃあああっ!」

「リゼットさん! 僕たちのことはいいから、今は逃げなさい!」


 逃げ遅れた子供を守りながら、オーレンが叫ぶ。リゼットはしびれる腕をかばいつつ、風の壁をにらんだ。確かにこれは、自分の手には余るかもしれない――。


「だけど、逃げるつもりなら最初からここには来てませんし!」

「リゼットさん!? 一体何を――」


 戸惑うオーレンに笑いかけ、リゼットはブラウスの袖をまくり上げた。さて、この風が何なのかはわからないけれども、必ず消し去る方法はある。


「――……」


 荒れ狂う風に金の髪が踊る。髪を結んでいたリボンがほどけ、リゼットの長い髪が肩に落ちた。しかし視線は前に据えたまま、動かさない。透明な風の流れを阻むことはできなくとも、手を伸ばせばわずかながらにほころびが生まれる。だとすれば、だ。


「さて、と」


 リゼットはにっこり笑って拳を振りあげる。風が壁になっているなら、そこに穴をあければいい。単純すぎる答えを実行しようとする小公女に向かって、風が波のように襲い掛かる。だがもう、リゼットは怯まなかった。


「行きます!」


 掛け声を放つが早いか。リゼットは鋭い右ストレートを見舞う。


 目の前に敵がいたなら、軽く膝を折ったかもしれない一撃。それが風の壁に直撃した途端、断末魔の悲鳴が響き渡る。


「もう一発!」


 すかさず左のジャブを決める。小公女の名を裏切る力強い拳は、今度こそ本当に風をぶち破った。壁は力なく四散し、わずかばかりの平穏が場に戻る。


「ふ、ふふ。いやぁ、ちょっと落ち込んでいるときのパンチは爽快ですねぇ。あ、オーレンさんたち、大丈夫でしたか?」

「大丈夫……いやいやむしろ君が大丈夫なのか? こんな無茶をして、怪我はないかい?」

「はい、もちろん平気です! わたし、簡単には倒れませんので!」


 とは言いつつも、本当に拳が通用するとは思わなかった。もしかして、実は戦いに向いていたりして? そんなわけはないと思いつつも、リゼットが変な自信をつけかけたその時だった。


「あ、ありがとう。おねえちゃん」


 オーレンに守られていた女の子が、おずおずと前に進み出てきていた。どういうわけかきらきらとしたまなざしを向けられ、リゼットは少しだけ困惑する。


「けがはしなかったですか? 風が強すぎて怖かったでしょう」

「ううん、オーレンおにいちゃんがいたし。それに、おねえちゃんがびゅんびゅんをやっつけてくれたから! すごいね、おねえちゃん! とってもカッコよかった!」

「い、いえ……あはは。わたしも助けられてよかったですよ! えーっと、それではわたし、先を急ぐのでこれで!」


 変態扱いには慣れていても、手放しに褒められるのはむず痒い。さっさと退散しようとするリゼットに、オーレンが苦笑いを向ける。


「リゼットさん、ちょっと待って」

「はい? な、なんでしょう?」


 逃げ腰のリゼットの目の前に何かが差し出される。真紅に染め抜かれたベルベットに、小ぶりなダリアの飾りがついたリボン。首をかしげてオーレンを見れば、茶目っ気のある笑顔を返される。


「髪、こんな風の中じゃ危ないから。これ使って」

「あ、ありがとうございます……! 何から何まで」

「いえいえ、うちのお得意様のためならこの程度苦にもならないさ」


 リゼットは手早く髪をまとめ、再び古書街の方を見つめる。いまだ激しい風に包まれたその場所に、装丁師クライドはいるのだろうか。


「行くのかい」


 リゼットの意図に気づいたのだろう。オーレンは眉尻を下げて首を振る。はっきり口に出さずとも、リゼットの行動に賛成はしていないのだろう。少しだけ低くなった男の声音には、確かに苦渋がにじんでいた。


「はい、行きます。なんというかちょっと、責任を果たしに行かないといけないので。オーレンさんたちは構わず先に避難してください」

「止めても無駄だろうね。……気を付けていくんだよ」


 ため息一つに背を押され、リゼットは古書街へと駆けていく。


 通い慣れた道も、様々なものが倒れめちゃくちゃになっている。道行を阻むものは風しかないとはいえ、尋常ではない強さだ。何度も転びながら、リゼットはなんとか古書街の通りにたどり着き、そして。


「え……」


 そこで異様なものを『視た』。


 三対の翼をもつ、緑の毛並みとエメラルドの瞳を持った――狼にも似た獣。光輪を背負ったそれは神々しくも硬質なまなざしをリゼットに向ける。


『――――』

 言葉は何一つ刻まれなかった。しかし瞬く間に、リゼットの足元から風の柱が立ち上り――。


「うそ」

 全身を切り裂かれる。予測された未来は、結果を言えば訪れることはなかった。


 横っ腹を撃ち抜かれる衝撃と、地面に叩きつけられ痛み。目の前が白くなるほどの激痛に呻きながらも、リゼットは最悪の未来を回避させた存在に恨みの視線を向けた。


「い、痛いですよ……」

「うるさい。死ななかっただけましだろ。何しに来た、役立たず」


 辛辣な言葉を吐いた黒髪の男――装丁師クライドは、夜に似た色の瞳に忌々しげな笑みを浮かべ、リゼットを見下ろした。

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