7.過ぎたる力と魔法の装丁

「あれは、何なのですか?」


 謎の獣は翼を広げ、甲高い鳴き声を上げた。先ほどの攻撃といい、言葉が通じる気配はみじんもない。感情すらも失せたエメラルドのまなざしが、再びリゼットたちに据えられる。


「悠長に話している暇はない。隠れてろ」


 リゼットが立ち上がるのも待たず、クライドは風に向かって走り出した。その先では翠の獣が翼をはためかせ、歌うように高く鳴いている。


「――『風の烙印』! 俺の言葉を聞け!」


 クライドの呼びかけにも、獣は反応を示さなかった。エメラルドの瞳は何も語らず、ただひたすらに――リゼットだけを映し出す。


「……どうして、わたしを見ているの」


 問いに対する答えは、再びの攻撃だった。危険を察知したリゼットが跳んだ直後、風の柱が出現する。轟音を響かせ空間を切り裂くそれは、リゼットに向かって移動を始めた。


「冗談じゃないですよ……!」


 獣の光輪が煌めき、さらにいくつもの風が出現する。どうしてこちらを狙っているのかわからないが、突っ立っていたらバラバラにされてしまう。


「く、クライドさん! 助けてください!」

「はあっ!? 自分で何とかしろ! とりあえずこっち来るな!」

「無茶苦茶言わないでくださいー!」


 たくさんの風に追われ、リゼットは古書街をぐるぐると走り続けるしかない。このままではいずれ力尽きるだけだ。わかってはいても、事態を打開する策など思いつかない。


 もうどうすることもできないのか。冷汗と息切れで視界がにじむ。獣を見上げれば悠々と宙で羽ばたきを続けている。その姿になぜか、少しだけイラっとした。


「……こうなったら!」


 リゼットは周囲をぐるぐる走り回るのをやめ、猛然とすべての中心である獣に向かって突き進む。途中、クライドがぎょっとした顔で二度見したが、それはまあいい。


「おいこら! 何でこっち来てる!?」

「むかついたので殴りに来ました!」

「な、なに!?」


 なぜか数歩後ろにクライドは逃げる。別に彼を殴るつもりはないのに、これは非常に不本意な事態だ。とはいえ、そんな悠長に説明している時間もない。


「では早速、一発いかせて頂きます!」

「なんでそうなった!」


 さらに逃げるクライドは放っておくことにした。リゼットは再び袖をまくり上げ、風の獣をにらみつける。相手は宙に浮いているが、尻尾くらいは叩けそうだ。


「逃げないでくださいよ~」


 リゼットの意図が理解できないのか、獣はじっとこちらを見たまま動かない。それは非常に好都合。一気に距離を詰めると、拳を振りかぶり――叫びと共に一発!


「ぬあああっ!」


 拳が尻尾の真ん中に突き刺さる。鈍い音が響き、風の獣は悲鳴をあげた。尻尾をかばうように地面に着地し、ギラギラとした宝石の目でリゼットを見る。


「そんな顔してもだめですよー、わたし、ちょっと怒ってるんですからね!」


 腰に手を当て笑うリゼットに向かって、獣は口から風を吐き出す。しかしそれも拳の一閃で切り裂かれ、エメラルドの目は初めて戸惑うように揺れる。


 だが、リゼットはそんなことで止まったりはしなかった。つかつかと獣の前に歩み寄ると、見事な毛並みの額に向かって手刀を振り下ろす。


『きゃううん!』

「おいバカ! なにいじめてんだやめろぉ!」


 やっと戻ってきたクライドがリゼットの額をはたく。いじめているのはどっちなのか。むっとしたリゼットは、振り返りざまに拳を突き出す。


「がっ! って、ほんとにバカなの? バカだろお前! 状況考えろ!」

「だったら賢いクライドさんが何とかしてくださいー。あ、ほら。逃げるとお仕置きですよ~」

『きゅうううん!』


 先ほどまであんなに神々しかった獣が、小さくて弱々しい生き物に見えてきた。さすがにきゅんきゅん鳴く生き物をぼこぼこにして倒す気にもなれず、リゼットは恭しくクライドに道を開けた。


「め、滅茶苦茶すぎる……」


 げんなりした顔のまま、クライドは獣の前に歩み出る。ふさふさの生き物はそれ以上抵抗せず、涙のたまった目で青年を見つめた。わずかだが、何かが二人の間で通いあったように見える。


「いい加減疲れただろう、風。さあ、うちに帰るぞ」

『きゅううん』


 クライドの前で、獣は大人しく頭を垂れた。その大きな額に手を当て、クライドは静かに目を閉じる。すると獣の輪郭が少しずつぼやけ、周囲の青白い光の粒が舞う。


「永き契約の鎖に戻られよ――『Reverti(帰還)』――」


 レウェルティ。その単語が紡がれると同時に、青白い輝きと風が霧散した。最後に残されたのは宙を舞う一冊の装丁本。クライドが手を伸ばすと、導かれるように手の中に舞い降りてくる。


「魔法装丁『風の烙印』――よく戻ったな」


 エメラルドの輝きを放つ装丁を撫でるクライドの顔はとても優しげだった。しかしほっと息をついた瞬間、装丁本は唐突に腕から飛び出していく。


「お、おぃい! どこに行く!」


 ものすごい勢いで宙を飛んだ装丁本は、リゼットの目の前で停止した。見つめあう少女と緑の装丁。いつまでも続くかと思えた時間は、装丁本が力なく落下したことで終わりを告げた。


「おおっと、危ないですね。傷ついちゃいますよ」

『きゅう』


 リゼットに抱きとめられた装丁から、小さなリスっぽい生き物が顔を出す。きょろきょろと顔を動かした生き物は、リゼットと目が合った瞬間、音もなく硬直した。


「またいじめてるのか! 返せよ」


 クライドがリゼットの手から装丁本を取り上げる。しかし再び腕から飛び出し、再度リゼットの前で停止する。


「……」

「…………」


 どういう状況だろう? 装丁本の考えが理解できない二人は、思わず顔を見合わせる。


「おお! 風がやんだみたいだぞ!」

「ほ、ほんと! 一体何だったのかしら……」


 しかし、それを掘り下げることはできなかった。風がやんだことに気づいたのだろう。周囲の建物から人々が顔をのぞかせ始める。


「……面倒だな。おい、一度ここを離れるぞ。魔法装丁、ちゃんと持ってこい」


 人々の注目を集めたくなかったのだろう。クライドは舌打ちをすると、足早に古書街から離れようとする。装丁を持ってこい、ということはリゼットについて来いということなのか?


「あ、待ってください! 装丁さん、一緒に行きますよ!」


 リゼットは宙に浮いたままの装丁本を捕まえる。そして、にわかに騒がしくなり始めた古書街から逃げるように走り去っていった。


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