第92話

 む、人間の気配。それも区切りのこちら側だな。

 

 「おお、タヌキではないか」

 「バルドゥルか」

 

 汲み置かれたぬるま湯で軽く体を流した後で、バルドゥルは温泉に入ってくる。吾輩が入るのは底の浅い位置、バルドゥルはもっと深い位置であるから、自然と距離は離れている。

 

 「おおそうだ」

 

 と、バルドゥルが何やら思い出したという仕草でこちらに意識を向ける。

 

 「この間言った偉い学者が来るって話なんだがな……」

 「学者……? 何の話だ?」

 

 はて、急になんであろうか。そのような話、吾輩は……吾輩、は……ふむ?

 

 「おいおい、つい最近だぞ、話したのは」

 「そうはいっても吾輩はそなたの話を基本聞き流しておるからな」

 「はあ!?」

 

 何を怒っているのだ。声がでかいうえに話が長くなりがちなバルドゥルが悪いであろうに。説明したがりというのは技術者の性なのかもしれんが、こちらとしては面倒に感じるのも当然というものだ。

 

 「それで?」

 「ったく、鷹揚なのかぼけっとしているのか、そもそもお前さんはいつも――」

 

 早速脱線しつつあるぞ、こやつ……。

 

 ぱちゃっ

 「あ、いや、はは……」

 

 尻尾で湯面を叩くと、バルドゥルはさすがにバツの悪そうな顔で薄い頭を撫でている。

 吾輩はもういってもいいか?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る