039 フリトトの力
柔らかい。
いや、本当に柔らかいかどうかは別にして、少なくともそう『錯覚』できる柔らかな感触。
周囲に舞い上がる光の粒子も、クールタイムを待ちわびている青騎士のことも、ラースの意識から一瞬で忘却の彼方へ吹き飛んでいった。
そんなことはどうでもいい。
質量を持たないはずの光の粒に合わせて、彼女の美しい
……なにこれ? え? いま、キス……してるよね?
『
相手は無敵の襲撃者、青騎士である。
なのに……そんな緊急事態の危機感さえ一瞬で蒸発するくらい、バーナデットの口唇の柔らかさは衝撃的で破壊的だった。
踊るようにゆらめく彼女の髪が、ラースの頬をくすぐる。その度に漂う甘い香り。
このまま、ずっと彼女と繋がっていたい。
なんのてらいもなく、ラースは正直にそう思った。
バーナデットが身じろぎする。
その微細な動きで、彼女はもうすぐ離れてしまう、とラースは直感で理解する。
いやだ。もう少しこのまま彼女と……。
そう思うのだが、身体は硬直したまま動こうとしない。彼女の腰をしっかりと抱き寄せて、自分から口唇を重ねたいという欲求はあるものの、その行動を実行する勇気がなかった。
そう、それは勇気のいることだと、ラースははじめて知ったのだった。
ゆっくりと、彼女の口唇が離れていく。
ラースは閉じていた目を開いて、目の前にいるバーナデットを見つめる。
黄金色に輝いていた瞳は、いつもの蒼碧の澄んだ瞳に戻っていた。
頬が朱に染まっている。彼女も照れているのか、それとも単に息苦しかっただけなのか、ラースには確かめようがなかった。
「……いったい……なにが……え? なんで、その……えっと……」
まったくもって言葉が出てこない。自分の脳が、思考することも言語野を活性化することも拒んでいるようだ。
すべては、彼女ともっとキスをしたいという衝動に置き換わってしまうほどの高揚感。
だが、バーナデットがそんなラースの動揺を鎮めるように、優しく人差し指をラースの口元に押し当てた。
「ラース。あなたに『フリトト』の力におけるすべての権限が移譲されました」
「え? なに? どうゆうこと?」
「簡潔に言えば」とバーナデットは青騎士を見やる。「あなたの攻撃はすべて、あらゆる任意のオブジェクトに通じるということです」
「それってつまり――」
「おいおいおいおい、随分とまあ見せつけてくれるじゃあないか」
青騎士が調子を確かめるように剣を振ってみせる。
「『
「ばっ! おまっ! 毎回するわけないだろっ! てか、は、は、はじめて――」
思わず動揺して反論してしまう。
「どうやらウザったいバリアも消えたみたいだし、アクティブゲージも回復したし、そろそろ夜になりそうだし、もう飽きたよ……大人しくやられてくれないかなあ?」
ラースの狼狽などまったく気にも掛けず、青騎士が距離を詰めはじめた。
……くそ。話振っておいて無視するな! こっちが余計恥ずかしいだろが!
ラースは心の中で文句を言う。
そして、改めて脅威は依然、脅威のままであることを再認識するのであった。
青騎士が攻撃モーションに入る直前から、バーナデットが再び左手をかざして『
「くそがっ!」
青騎士が苛立ちを隠さずに、力任せの一撃を防護障壁へ叩きつける。
虚しく響く金属音。
「ラース」とバーナデットが顔だけを後ろに向けて言った。「あなたに『フリトト』を移譲した現在、この『
「それはつまり、どういう……」
問いただす前にバーナデットが話を続ける。
「固有スキルとなったこの術の効果時間は十五秒です。効果が切れた場合、私のレベルとスキルではこの騎士の攻撃を防ぎきれません。
完全無欠の絶対障壁に制限時間がついた、ということか。
なぜ? と訊きたい気持ちをおさえて、ラースは最優先で決着をつけなければならない眼前の敵へ意識を集中させた。
「通じる……と言ったね……」とラースが呟く。
バーナデットが無言で頷く。力強い、確信に満ちた頷きだった。
「いいことを聞いたぞ。あと十五秒だと?」と青騎士が歓喜の声を上げる。
断続的に剣戟を繰り返す青騎士。先程のようなデタラメな動きではなく、アクティブゲージの消費を考慮に入れたコンスタントな連続攻撃である。
「バーナデット。そのまま、いいと言うまで目を瞑って」
「そらそらぁ! あと十秒……五秒前! 四、三、ニ、一――」
青騎士が自分のカウントに合わせて剣を振るう。
ゼロに合わせてミスリルソードを振り上げた瞬間、ラースも目を瞑る。
――『
詠唱したわけではない。心に思い浮かべただけである。
だが、術は発動した。
青騎士のカウントダウンに合わせて発動させた『
視界の全てが真っ白に焼けるほどの眩さだった。
「なっ?! クソっ! くだらない術を使いやがって!」
青騎士の鎧や兜であれば、ステータス異常に対する耐性も最高クラスの防御力を持っているはずだが、それでも防ぎきれないほどの光量だった。
視界を奪われ、バランスを崩した青騎士は、反撃を恐れて牽制のためにミスリルソードを左右上下に振るった。
その無様な青騎士の振る舞いを冷淡に見つめたまま、ラースは『
青騎士のプロフィール・ウィンドウが強制的に開く。何も表示されない漆黒のウィンドウは、やがてそのフレームまでも激しく振動させて、次々と情報を表示していく。
まるで固くこびり付いていた錆が剥がれ落ちるように、ウィンドウ内に文字が現れていく。
名前の欄は『青騎士』となっていた。
職業も青騎士。
プレイヤーのはずだが、その名前が表示されないというのは『青騎士』という役割が監視ボット――つまりNPCと同一のものだからか? よくわからない。
ライフゲージ、スキルゲージ、アクティブゲージも表示された。
……弱点となる属性はさすがにないか。
耐性の低い属性がある場合は、それを指し示すアイコンがあるのだが、青騎士の表示欄は空白であった。
だが、これで充分だ。ゲージがあるということは、減らせるということだからな。
大気よ
閃光の剣となりて 敵を滅せよ
青騎士が体勢を立て直す時間を与えずに、ラースは呪文を思い浮かべ、最後の『
振り上げた右手から、丸太のように巨大な稲光が迸り、激流のように青騎士へ直撃した。
攻撃がヒットしたときに感じる微細な心地よい振動。
通じたのだ。
「なっ⁉ くそっ! 話が違うじゃないかぁっ!」
『
そして、その威力もまた尋常なものではなかった。
青騎士のライフゲージの三割が一瞬で目減りした。
……なんて威力だ。
おそろしく強い蛮神レベルのレイドボスを基準に考えてみて、おそらく数値にしてみれば数十万はあるだろうと予測される青騎士のヒットポイントの三割を削るということは、それだけでほとんどの敵は一撃で倒せるということだ。
初級の魔導術で与えられる威力ではない。しかも今日は魔導術に関するすべての能力値を底上げしてくれる『異端定理の魔杖』を装備しているわけでもないのだ。
……それで、この威力というのは……。
放った自分がおののいてしまうほど、想像を超えた『力』であった。
……これが、本来の『力』の姿なのか?
バーナデットをみやる。彼女は、すこし寂しそうな微笑を称えていた。
……『フリトト』と言ったな。
タチアナから聞いていた言葉。詳しいことを思い出している暇はない。攻撃が通じるのであれば、もはや勝敗は決したも同然だった。
災厄の王を捕らえし
残虐なる冥王の守護者よ
汝が作りし永劫の牢獄より放て
鋼鉄の薔薇の鎖を持って
不遜なる者共への戒めとなれ
地響きが轟き、茨を模した無数の鋼鉄の鎖が青騎士を目がけて飛び出してくる。鎖には棘があり、所々に鋼でできた薔薇の細工もついている。
あらゆる角度で青騎士の四肢に絡みつく茨の鎖。その強烈な締め付けは、本来であれば行動するのに大幅な制限がかかる程度の術なのだが、『フリトト』の力で召喚された鎖は、青騎士が完全に行動不能となるほどの負荷を与えていた。
さらに、本来であれば茨の棘がヒットポイントを微妙に削っていくというオマケ程度の追加ダメージを加えるのだが、今の『力』で使用すると目に見えてゲージが減っていくほどの勢いで継続的な大ダメージを与え続けることになった。
「なんだよ! どうしてこんな……っ! 絶対に傷つかない最強の装備じゃなかったのかよ! 貴様! いったい何をしたんだっ!」
身動きできず、その場でじたばたと藻搔くことしかできない青騎士が怒鳴り散らす。
「なんでこうなるんだよ! 無敵なんだぞ! 誰も僕に勝てないって言ったんだぞ! くそっ! なんでなんだよ! 何をしたんだ! ラアアアアス!」
青騎士が絶叫する。
「あー、すまないが」とラースがとぼけた声音で言う。「俺にもちょっとよく分からないんだよ」
「な――っ? 貴様ァ! ふざけるなっ」
ラースは青騎士の言葉を無視して、次の呪文の詠唱をはじめる。
開け雷鳴の獄門
全てを切り裂く
残忍なる風の牙を伴ないて
渇望のままに荒れ狂え
『
猛り狂う獣の姿と化した稲妻が、生贄に群がるように一気呵成に青騎士へと襲いかかる。
「止めろっ! ヒィッ! 来るな……来るなあああっ!」
渦巻く暗雲に包まれて稲妻と真空の牙によって切り裂かれていく青騎士のライフゲージが、みるみる減っていく。
ラースは空を見上げる。太陽は完全に山の稜線に隠れ、夜の帳が降りはじめる。山の影となっている山道はさらに暗さを増してきた。
周囲が暮れてくると、青白く明滅を繰り返す稲妻の光がより鮮明になっていく。
稲妻と真空が、鋭い風切り音を立てて、容赦ない攻撃を続けていた。
数十万ポイントはあるライフゲージを数秒で削り切る自分の魔導術の威力に恐怖を感じつつ、それでも、首の皮一枚で繋がった勝機に安堵の吐息をつく。
「悪いな。俺の勝ちだ」
青騎士のライフゲージがゼロになると同時に、対峙している宙空に『FINISH!!』の文字が勢いよく表示された。
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