【Chapter.1 トイレのなんとかさん】


 

「おーほほほほほ、可愛いでちゅね〜めんこちゃんでちゅね〜ホレホレ〜」

「……ちょっと黙って」

 

 あ、さすがに怒られた。でも声ちっさ。私じゃなきゃ聞き逃してたね。

 

 

 

 状況を説明しよう。

 爆速で自室から薬と氷枕とゼリーと、あと卵を持って和田さんに帰還した私は、まずリビングと寝室を繋ぐドアを開放した。もともと付いてるドアストッパー?みたいなやつが使い物にならなかったので、私のカバンで代用した。そのまま、ソファで横になってた和田さんに寝室のベッドに移ってもらい、桃の果肉入りゼリーを無理矢理食べさせ解熱剤を飲ませ肌掛けを被せ、目を閉じたとこまで確認してリビングに戻った。とりあえずバイト先にもう一度連絡を、と、ソファ横の床に腰を下ろした瞬間。テレビ台の下の隙間から、何かが飛び出してきた。真っ白のなにか、毛玉のようなものが、すごい速さでこちらへ向かってくる。

 

「デジャブ⁈」

 

 思わず、声が出た。

 どこかには居るんだろうなと思っていた白毛玉が、両手両足を大の字に広げた状態で跳んで来て、私の膝小僧にべたっと張り付いた。薄手のジーンズ越しに、ほんの少しの体温と拍動を感じる。真っ黒のクリクリな両目、その下でヒゲの伸びた鼻先がひくひくと動いていた。

 

「ええ……ネズミもそうやって飛ぶんです?皮膜ないじゃん、モモンガみたいな……」

 

 私の恩人(恩鼠おんちゅう?)、白い雌の小鼠、チュー太もとい花子のご登場。視線を巡らせると、テレビ台の横に、よく庭木に設置してある鳥の巣箱のような小さな家がある。

 

「え、それだけ?」

 

 近くには餌用のお皿も水受けも、トイレになりそうなものもない。更に見回してみても、一般的に小動物を飼育するのに必要そうなケージの類なんかは、発見できなかった。

 

 急に、心配になる。飼い主である和田さんが寝込んでしまった今、花子のお世話はどうするのだろう。もしかして私の知識が間違っていて、ネズミも犬猫みたいに部屋で放し飼いができるのだろうか。ケージなんていらなくて、別の飼育方法があったりするのか。なんせ、動物を飼った経験がないのでわからない。それに、勢いで上がり込んでしまっているが、私がいつまでもここにいる訳にもいかない。誰か、こういう時に頼れる関係の人は近くにいるのだろうか?

 悶々としていると、私の内心を読んだかのように、花子が動いた。いそいそと膝を登り、太腿の上にすっくと二本足で立った。

 ……二本足で立ったが⁈

 しかもめちゃくちゃ姿勢良い。猫背のねの字もない。鼠だけに。なんなら私より背筋伸びてる。まあそんなこともあるだろうと無理矢理自分を納得させ、どうちまちたか〜なんて猫撫で声で話しかけると、また花子が動いた。顔は私を見上げたまま、片方の手で寝室の方をびっと指差した。

 ……指差ししたが⁈

 そうだった。この子、普通のネズミの物差しで見たらいけない子だった。今更か、今更だな、うん。

 とりあえず、何か訴えていることは間違いない。爆速で、今日お休みしますごめんなさいのメッセージを打ち込む。暑さで自分も具合が悪くなってしまったことにした。送信をタップして、バイト先からの返信を待たずにスマホをソファの上に放った。

 両手を受け皿にして花子の前に差し出すと、今度はちゃんと四足歩行で、小鼠さんが登ってくる。ちょっと擽ったいなあなんてニヤニヤしながら、そのまま立ち上がって寝室へ向かった。

 

「あのー、和田さん?寝ちゃいました?ちょっとだけ聞いてもいいです——うわっ⁈」

 

 ベッドの横に立ち様子を覗こうとした瞬間、花子が掌から飛び降りた。華麗なフォームで枕の横に着地すると、そのままするすると飼い主が被っている上掛けに潜り込んで行った。

 

「わあ……雑技団みたーい」

 

 雑な感想を口にすると、もぞもぞと肌掛けが動いて和田さんが顔を出した。まだ、完全に眠ってはいなかったようだ。目の縁が赤い。具合悪すぎて逆に寝れないとかじゃなければいいけど。

 

「なんですか」

「あ。いまあっちで花子に会いまして、連れて来たら布団に潜って行っちゃって」

「問題ないので本当に申し訳ないけどもう少しあっちに居てもらっていいですか。テレビとか見てていいしある物勝手に食べていいから」

「おー、ありがとうございます。じゃなくて、花子のご飯とかおトイレとかどうしたら良いかなって。取り替えたり補充したりとか必要だったらやりますよ」

 

 和田さんが寝返りうったときに花子が下敷きにならないか心配だったけど、飼い主が大丈夫と言っているし、何より花子だし。そこは言及せずにお世話の仕方を聞いてみると、ああ、と呟いた和田さんはどこか虚ろな目をして答えた。

 

「テレビの横……の床に、ミニチュアの家みたいなのがあるから……食べる物はその中に入れてある。けど朝足したからそんなに減ってないと思う」

「なるほどー。ちゃんと食べてるか、後で確認してみますね」

 

 さっき見つけた巣箱みたいなのを遠目に確認しながら、ヒマワリの種を両手で持ってガジガジしてるハムスターを思い浮かべた。すると、和田さんが不思議なことを言った。

 

「見ちゃ駄目だからね」

「……ん?」

「食べてるとこ」

「え、なにこわい」

 

 また何か、そっち系の話題になろうとしてるのかと少し身構える。

 

「……食べてるとこ見られるの凄く嫌がるから。トイレも一緒。見えないとこでしかしない。トイレに専用のトイレみたいなの置いてある」

「なるほどねートイレでトイレするのね偉いね花子〜可愛いでちゅね〜」

 

 茶化してみたけど、和田さんは何も言わなかった。ちょっとだけ漂っている、なんだか嫌な沈黙。よせばいいのに、聞いてしまった。気になったから。

 

「もしかしてだけど、花子って名前……某有名都市伝説から来てたりします?トイレの」

「そう」

 

 あ、即答だった。

 布団の中が思ったより暑かったのか、潜って数分、渦中の花子がベッドの足の方から出て来た。私の顔をじーっと見上げるので、またリビングに連れてけという意味だと捉え、小さな体を掌の上乗せる。

 

「でもあれですよねえ……某幽霊とは程遠いですよねえ。ちっちゃくて真っ白で可愛いしめちゃくちゃ賢いし、私にとっては命の恩人だし。どっちかって言うと、守り神って感じ」

 

 毛並みのいい背中を指ですうっと撫でながら目線を落とすと、和田さんが寝返りをうつ。壁側を向いてしまったから、表情は見えなかった。消え入るような、聞かせるつもりがないような、くぐもった声だけが届いた。

 

「そんな良いもんじゃないよ、それ」

「……え?」

「…………」

 

 和田さんはそれきり喋らなくなった。眠ったようだ。いいもんじゃなきゃ何なんでちゅかねえ、なんて口を尖らせながら、花子を見つめた、その時。

 

 にっ。と。

 

 真っ黒な目と口が、弧を描いた。

 あの時・・・の、運転手みたいに。

 

 バッと、和田さんの方を見る。大丈夫、特に異変はない。もう一度、バッと花子を見る。その顔は、もう笑っていなかった。いつも通り、くりくりな両目と、ひくひくと動く鼻先。可愛いの権化を両手で包んで、私はリビングへ駆けた。片手で花子を捧げ持ったまま、ドアストッパーにしていたカバンをもう片方の手で漁る。ない。どこだ。あ!思い出した。今度は、ソファの上を探る。あった。

 カメラモードを起動したスマホのレンズを、花子に向けた。

 

「ちょ、頼む!さっきのもっかい!あの可愛いやつ、さっきの、あの笑顔ください!実家に写真送りたい!お願い‼︎」

 

 眠ったと思っていた和田さんから、「まじかよ」という声が聞こえた。カメラ越しに見える花子の顔は、完全に、なんというか虚無。

 

 お願い頼むを連呼しても花子は微動だにせず、ついにはぷいっとそっぽを向いて、私の手から飛び降りてしまった。オーマイガア〜なんて情けない声をあげながらその背中を目で追っていると、テレビ台の下から何やら細長い棒のような物を引っ張り出している。何かが引っかかってうまく取れないようで、近付いて一緒に引っ張ってみた。

 

「おおお。これは良い」

 

 出てきた物を見て、にんまりする。なぁんだ、やっぱり可愛い小動物じゃないか、これで遊びたいってことね。

 

 テレビ台の下から出てきた物。華奢なプラスチックの棒の先に羽みたいなふわふわが付いた、所謂「猫じゃらし」。きっと、花子用のおもちゃだ。ネズミも使えるだろう、たぶん。シャッと床の上を滑らせると、花子がふわふわ部分に飛び付いた。ちゃんと目標を捕捉している。うん、これは良いぞ。もう一度、寝室の方を振り返る。和田さんが被った肌掛けは、規則正しく上下している。

 

「遊んでくれるかいお嬢ちゃん」

 

 猫じゃらしを振りながら床の上に寝っ転がった。

 

 そして、冒頭に戻る。

 

 

 

 

 

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